クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/06/30
今年の5月まで付き合っていた彼の話。
料理がすきで、調理場でバイトしていた。
付き合い始めのころに私が作った味噌汁に、
溶け残りの味噌が固まって入ってたことがあった。
飲み終えてから気づいて、恥ずかしさから
どうして早く言わないの?!と怒った私に
「好きな人が作ってくれたものはみんな美味しいんだよ」って言ってくれた。

彼はよくおいしい料理を作ってくれた。
私よりかなり上手。
私の料理がまずければ正直にまずい言うようになった。
「料理が上手になってほしいから」って。
料理するたびに文句を言われるから、
「長く付き合うとやさしくなくなるんだなぁ」
なんて思って、せがまれても作らなくなった。

彼とは5月に別れた。
彼のことをすきかどうか分からなくなって。
彼は優しかった。
彼から別れをきりだした。
私の気持ちに気づいていると思わなかった。
次第に冷たい態度をとっていってたんだと思う。
自分の鈍感さに、非道さに気づいて、泣いた。
何度も謝ったけど、彼への仕打ちは消えない。

好きな人の気持ちが離れていくのを彼はずっと気づいていた。
どうすることもできず、いつものように振舞って、ついには自分から私を手放した。
望んでないのに。
私よりずっとキツイ仕事をしているのに、通ってきてくれて、料理を作ってくれて、愛し
てくれた。
思えば、別れの数ヶ月くらい前から
「俺のこと好き?」って聞くようになった。
冗談のつもりで「嫌い」って、私。
寂しそうな顔は演技だと思ってた。

今になって思う。
まずくても、不恰好でも、それでも
私の手料理が良かったんだよね。
彼よりへたくそで、気にする私に、料理を教えようとして正直な感想を述べててくれてた
んだよね。
なのにそのことに気づかず、努力もせず、手伝いもしないでご飯を作ってもらってた。
ろくにお礼も言わなかった。
今更遅いけど、ごめんね。
こんな女が最初の彼女でごめんね。
こんな私を愛してくれて、本当にありがとう。

料理をすると彼が思い出される。
連絡をしたらきっとまた傷つけてしまう。
伝えたいけどもう伝えられない、感謝と後悔。
posted at 2012/06/30 0:00:54
lastupdate at 2012/06/30 0:00:54
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この話の主人公、たかし君(9歳)は、折り紙の好きな
明るい少年である。
彼は5歳の時、重度の心臓病、心筋症であると診断される。
完全に治すためには移植するしか方法はなかった。
貴嗣君が2年生だった6月の朝、母親の節子さんは貴嗣君の
様子がおかしいことに気付く。呼びかけにも応えず、右足が
硬直しているようだった。
急いで病院に運ばれた貴嗣君は、脳梗塞の疑いがあると言われる。
 子供が脳梗塞になることは非常に稀なことであるが、心筋症で
あった貴嗣君の脳の血管がつまってしまったのだ。彼は
右半身が麻痺してしまい、その上、声が出せない、つまり失語症
になってしまったのである。
節子さんは、紙に平仮名を書き、貴嗣君に指してもらって意志を
確かめようとしたのだが、平仮名を読むことも困難らしく、
できなかった。せめて声だけでも出せるようになってほしい、
と両親は願っていた。
 そんな貴嗣君を病から救ったのが、クラスメイトのみんなだった。
病気で入院している貴嗣君のために千羽鶴を折っていたみんなは、
お見舞いに行きたいと担任のT谷先生に言う。
しかし、病状の悪化していた貴嗣君は面会謝絶の状態が続いていた。
そこで土谷先生は、クラスメイト全員の声のメッセージを
テープにとり、千羽鶴と一緒に貴嗣君のもとへ届けたのである。
節子さんはそのテープを、何日も貴嗣君に聞かせた。
そして、奇跡は起こったのである。
 節子さんが貴嗣君にジュースをひとくち飲ませ、クラスメイトの
テープを流していた時だった。

「もっとのみたい」。

貴嗣君がしゃべった。節子さんは信じられず、
「もう一度言ってごらん」と言うと、たどたどしいながらも、
「もっとのみたい」と言ったのだ。
貴嗣君に、声が戻ったのだ。
医師や看護婦も、信じられないような奇跡に、喜んだ。
この春、4年生になった貴嗣君は、右半身に少し麻痺が残るものの、
暖かい同級生たちに囲まれて、楽しい学校生活を送っている。
posted at 2012/06/30 0:00:54
lastupdate at 2012/06/30 0:00:54
修正
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2012/06/29
これは俺が3〜4年前の夏、イタリアのローマで体験した話です。
俺は大学でイタリア文学を専攻していて、大学4年の時に休学して半年間ローマに留学してたんだけど、その時にローマの郊外にある、エウルっていう穴の開いたチーズみたいなビルを1人でブラブラ見に行ったんだ。

直射日光が凄くてめちゃめちゃ暑い日だったんだけど、ビルが建ってる所が高台になってて、街が見渡せて涼しい風も吹いてたから、建物の影になってる所に座って一服しながら景色見てたのね。そしたら、ちょっと前まで誰もいなかったんだけど、いきなり3つ揃えのスーツをバシッと着た小さい90ぐらいの爺さんが俺の肩を後ろから叩いて、「よう!ロベルト、久しぶりだな!」って声かけてくるんだよ。俺も、不意打ちだった
もんだから、一瞬ビクッとしたんだけど、すぐに人違いかなと思って、その歳の割には元気のいい爺さんに
「あの、人違いですよ。ぼくは日本人ですし、ロベルトという名ではありません。」ってキッパリ言ったの。
そしたら、爺さんの方は、凄い嬉しそうな顔して「やっぱりロベルトじゃないか!」って益々大きな声で言いだしたんだ。俺は、いよいよこのジジイぼけてんのかな?って思ったけど、まとわりつかれても嫌だなと思ったから、「だから、ロベルトじゃないって。普通の日本人はそんな名前じゃないよ!」って言ったら、爺さんは笑いながら「そんな事は知ってるわい!」みたいな感じで事の経緯を話しだしたんだ。
以下、俺と爺さん談(イタリア語だったので、それっぽい口調になおしました。)

爺「もちろん、君の本名がロベルトじゃないって事ぐらい知ってるさ。君は見たところ日本人っぽいし、わしは今年で92になるが、まだそこまで耄碌してないつもりだよ。君は昔、イタリアとドイツと日本が戦争で同盟を結んでいたって事を、学校かどこか勉強した事があるかね?」

俺「もちろん、知ってますよ。僕だけじゃなく、日本人なら大抵の人は。」

爺「よろしい。わしは第1次、第2次と2つの世界大戦に最初から最後まで海兵として従軍したんだが、当時はドイツや日本からこの地に派遣された、若い将校や外交官なんかと親睦を深めるためによくつるんで飲みにいったりしたもんだ。お互い、言葉も文化も違うが、当時の我々にとっては、そんな事は大して重要じゃなかったし、とにかく共通の敵がいる味方どうし、若かったってのもあるが大いに盛り上がったもんだ
よ。そして当時は、わしらみたいにつるんでた連中は、イタリア兵もドイツ兵も日本兵もみんな、お互いを親愛の情をこめてロベルトって呼びあったもんさ!」

俺「はぁ…。でもまた、なんでロベルトなんっすか?」

爺、にっこり笑って「わからんかね?ロベルト(ROBERTO)というのは頭文字を合わせたものさ。
3国の首都 ローマ(ROme)・ベルリン (BERlin)・東京(TOkyo)の。だから、君を見かけた時、
日本人じゃないかと思ってロベルトと声かけたってわけさ!」

俺「へぇ〜。なんか歴史を感じる話っすね〜」

爺、急に笑顔から一変して渋い表情で「ところで、君のご家族やお知り合いの方で、第二次大戦に従軍された方はいるかな?」

俺「うーん…。祖父は従軍しましたけど、もうとっくに他界したし… あ!親戚の爺さんでまだ1人生きてますよ!」

爺「そうか、そしたら今度あった時には、イタリアが途中で戦線を放棄したことに関しては、本当に遺憾に思っており、わしの人生においてただ一点の心残りであり、日本の皆さんには謝っても謝りきれない事をしたと思っている。と伝えてくれ。」と目に涙を溜めながら、俺に訴えてきた。

俺「うーん、今さらそんなに怒ってる人もいないんじゃないかなぁ?あの小うるさかった俺の祖父でさえも、イタリアの事で、ぼやいてた事は一度もないし…。」

爺「我々はあの時、誓って誰一人戦線を放棄したいと思ってる奴はいなかった。わしの海軍部隊では政治的に戦争が終わった時でさえ、皆悔しさに泣き、同盟国を見捨てるのかと、誰もが断腸の思いだった。拳銃で自殺をしたものだっている!でも、わしはあの時何も出来なかった…。昨日まで、同じテーブルで酒を飲み、ロベルトと呼びあい、同じ敵を蹴散らそうと雄叫びを上げあった仲にも関わらず、同盟国の戦況が日に日に
悪くなっていくのが、ラジオで伝えられようと、何も出来なかったんだ…。特に、日本の方々が最後まで意志を貫かれているという報道を聞くたびに、どれだけ5体が引き裂かれるような思いがしただろう。だから、日本の方々には戦線を離脱した腰抜け、裏切り者と思われても止むを得まい。
そして、イタリア人は、ちゃらついて女の尻を追いかけるだけの、軟派者と思われているかも知れない。
しかし、その後の半世紀以上、わしを含めた海兵全員は一日だってその事を悔いなかった事はないのだよ…。
だから、君のお知り合いには、是非すまなかったとお伝えください…。」

そういうと、爺さんは年甲斐も無く泣き崩れた。そしてよく見ると爺さんの胸には、会社の社章のような
小さいもので気付かなかったが、古びたイタリア海軍の所属部隊のバッジが着いていた。そして、急な展開に戸惑った俺は、「わかりました、今度会ったら必ず伝えておきます。」とだけ言って、挨拶をしてその場を去り、また炎天下の中に戻っていった。今まで、不思議ととても涼しく心地よかったのだが、その場を離れた
瞬間また砂漠のような猛烈な暑さに見舞われた。そして数メートル進んだ後、爺さんが何だか気になって振り向くと、このテの話にありがちだが、もうそこには誰も居なかった。その爺さんが、幽霊だったかどうかなんて、今となってはわからない。ただ俺は、爺さんと最後に交わした挨拶を思い出して少し、変だなと思った。

爺「ここにいれば誰か日本の方が来ると思って、ずっと待っていたが、わしの話を聞いてくれた人はどれくらいぶりだろう。皆、わしがまるで見えないかの様に、無視をして立ち去ってしまうのだから。ありがとう。」

俺「いいんですよ。でも、ここよりもっと街の中心の観光スポットに行った方が、日本人はいっぱいいるんじゃないですかねぇ。コロッセオとか。それでは、お元気で。」

後日帰国して、久方ぶりに、家で寝たきりになって殆ど誰とも口をきかない親戚の爺さん(元海軍)を訪ね、その話をした。爺さんは、何も言わず、ただ目に涙を溜めていた。そして、その話を聞いた1週間後に老衰で他界した。世話をしていた従姉妹によると、俺が会った後の1週間は爺さんが妙に明るく、皆に積極的に話しかけてたと言う。
posted at 2012/06/29 0:06:57
lastupdate at 2012/06/29 0:06:57
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2012/06/28
母方の曾祖母の話。
身内で唯一の曾祖母で私が会いに行くと「アイスでも買ってお食べ」と毎回
1000円をくれた。
毎回お金をくれるし温和な性格だったから、しょっちゅう遊びに行ってた。
曾祖母と祖母は同じ家から嫁に来ていて(曾祖母が養女だったらしい)、
曾祖母は気の強い祖母にいつも気を使っていた。意見を通すことは滅多に無く、
いつの頃からか晩酌にコップ1杯の日本酒を飲んで不満を忘れようと
しているように見えた。
いつからか私が小声で話すのは聞こえても祖母に話し掛けられると
耳の遠いふりをするようになった。

曾祖母の体調が悪くなって入退院を繰り返すうち、祖母はだんだん厄介者扱い
をするようになり、寝ているベットにはあまり行かなくなった。
曾祖母はお風呂が大好きだったが、介護で入浴させることは大変だったらしく
あまりお風呂には入れていなかったようだった。
曾祖母が危ないという話だったので駆けつけてみると、うわごとのように何かを
呟いている。

私も上手く聞き取れなくて「ぴいばあちゃん、お風呂に入りたいの?」
と言うと、大きく頷いた。握った手をぎゅっと握り返してきた。
私は必死に「ぴいばあちゃん、お風呂に入りたいって言ってるよ、
入れてあげようよ!」と言ったが、何年も介護している祖母に対しては
言わなかったことらしく、
「もう何も反応も無いし、そんなこと言うわけ無いよ」と言われた。
半泣きで「お風呂に入れてあげようよ」と繰り返したが、聞き入れてもらえな
かった。
内孫でない私が言ったところで聞き間違えにしか取ってもらえなかった。
ぴいばあちゃん、ごめんね。私がもっと強く意見を言えば、もしかしたら
お風呂に入れたかもしれなかったのに。ごめんね。

曾祖母が亡くなって10年以上が経ちました。
たまに曾祖母の手の暖かさを思い出しては涙がこぼれます。
posted at 2012/06/28 0:08:01
lastupdate at 2012/06/28 0:08:01
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2012/06/27
あれは、俺が中学校2年生の時だったな。俺が住んでた町の夏祭りの日だった。
仲の良かった友達3人と夏祭りに行ったんだけれど、そこで同じ学校の女子生徒3人組と出会ったんだ。

気が付いてみると、俺以外の3人はなんかすごく仲良く話してるんだよね。
俺、なんだか話してる内容もよく分からないし、そんなに仲も良くなかったから暇でさ。妙に居心地悪かったんだよ。

で、そうこうしてる内に花火が始まって俺は花火を見てた。
気が付いたら周りに友人たちはいなかったんだ。
はぐれたな…って思った。一人でこんなとこいてもしょうがないから花火だけ見て帰ったんだけど、その途中に楽しそうな6人組を見たよ。

声もかけられなかった。見つからないように帰った。
家に帰る途中、自販機でコーラを買ってたら、カツアゲされた。
その後の俺の性格を決定した一日だった。
posted at 2012/06/27 0:12:11
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2012/06/25
我家は母子家庭。
もちろん裕福ではないけど、つつましく暮らせば生活に困るような事もないような家庭のつもりだったのですが。

ある日、元々指輪など装飾品にそれほど興味のなかった私が珍しく超々安物の指輪を気に入って購入した夜。
私「ねえ、これかわいいでしょ〜?」(本当に気に入ってたから)
小4の息子「買ったの?」
私「うん、どう?」
息子「高かった?」
私「まっさかーー、500円だったかな」

その後、何故か息子は下を向いて黙ってしまいどうしたのかと思ってたら
「俺が大きくなったら、すっごい高い指輪買ってあげるから」って涙ふきふき言われてしまいました。

買えないから買わないのももちろんあるけど、我慢するほどそういうのが欲しい私ではなかったのに、息子は、きっと勘違いしちゃったんだろうなって。
でもそんな気持ちが嬉しくて、私も泣き笑いしちゃった。

これから先、何があってもこの子がいてくれたら乗り越えていける、って改めて思わせてくれた夜でした。
posted at 2012/06/25 0:02:46
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2012/06/24
今から9年前、当時は仕事の関係で家内ともに海外赴任していました。
ある日、日本からの突然の電話、家内のお母さんが急に亡くなったとのこと。
自分も家内にうまく事情を説明できないまま、飛行機で帰国。飛行機の中では家内は泣きっぱなしでした。
自分のできることは手をしっかりと握りしめることだけでした。
24時間かけて日本へ到着し、葬儀場で変わり果てたお母さんの姿を見て家内は号泣しました、周り私も号泣でした。
あんな泣いた家内は初めてでした。
お母さんと最後に会ったのが1年半前、元々病気で寝込んでいたのですが、娘に心配かけない様にと家内の父はその事をずっと連絡しなかったんです。
「もう少し早くわかっていれば亡くなる前に会えたのに・・」と悔やんでいたのを思い出します。
そのお父さんも一昨年なくなりました。家内35歳にして両親を失ってしまいました。
特にお母さんには孫を抱かせてあげたかったな・。 家内のことはずっと一生大切にしていこうと誓いました。
posted at 2012/06/24 0:00:33
lastupdate at 2012/06/24 0:00:33
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2012/06/23
学生時代、書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。
本当は泊まる予定だったんだが、次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので
結局日帰りにしてしまった。
母にサインやら捺印やらをしてもらい、帰ろうとして玄関で靴紐を結んで
いると、父が会社から帰ってきた。
口数が少なく、何かにつけて小言や私や母の愚痴を言う父親のことが苦手で、
一緒に居ると息苦しさを感じていたの私は、父が帰宅する前に帰って
しまいたいというのも、日帰り、ひいては通えない距離の学校を選んだの
理由の一つだった。
父が、「お前、泊まるんじゃなかったのか」と訊いたので、
「ちょっと忙しいから」とぶっきらぼうに答えると、手に持っていた
ドーナツの箱を私に差し出し、
「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから」と言った。

駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は
待たされるようだった。
小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。
3個ずつ3種類入っていた。
家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれないよ。
箱の中を覗き込みながら苦笑した。
その直後。
あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうな―。
ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。
様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、どれもこれも
切なかったり苦かったりばっかりで。
手持ちのポケットティッシュが無くなっても、ハンカチが洗濯して干す前
みたいに濡れても涙は止まらなくて、
結局、一本あとの電車が来るまで駅のベンチでずっと泣き続けていた。
posted at 2012/06/23 0:04:37
lastupdate at 2012/06/23 0:04:37
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2012/06/21
ある日の夫
野菜スープを作ってたら
「今日カレー?」と聞いてきた
またある日の夫
付け合せにするジャガイモを切っていたら
「今日カレー?」と聞いてきた
別のある日の夫
そうめんを茹でるため大鍋を取り出すと
「今日カレー?」と聞いてきた
昨日の夫
玉ねぎの皮を剥いていると
「今日カレー?」と聞いてきた
今日の夫
私が「今日こそカレーだよ」と言うと
(*゚∀゚*) って顔して出勤した
posted at 2012/06/21 0:11:00
lastupdate at 2012/06/21 0:11:00
修正
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2012/06/19
私の母は、趣味の一環(?)で。年末になると毎年
お正月のおせち料理を食べるときに使う祝い箸を
あらゆる知人に配っています。
昨年、母は癌?で家族と離れ、京都の方に入院している
同僚の男の方に、何の気なしに箸を送りました。
その時、病気の進行により、既に食事はおろか流動食をチューブで
流し込むんでいる状態だとは知らなかったからです。
後でその事を知人から聞き、無神経なことをしてしまった、と
母は後悔していました。
しかし、お正月明けに来た一通の手紙。
その同僚の方からでした。
手紙には、このように書かれていました。
「病気になって初めて健康であることの大切さを、
食べるという基本的な人間の行動すらできなくなった自分は
切実に痛感し、半ば放心的になっていました。しかし、
そんな私にもいつもと変わらず箸を送ってくれてありがとう。
正月までにはこの箸を使って食事ができるように、頑張ろうという
大きな励ましになりました。本当にありがとう。」
手紙を読みながら母は泣いていました。
翌月、その方は亡くなってしまいましたが、母のした
行動は、彼にとってすごく勇気づけられたことだったんだなぁ
と思いました。

働きすぎの私のお母さん。
あなたも健康に気を付けて長生きしてね。
posted at 2012/06/19 0:04:38
lastupdate at 2012/06/19 0:04:38
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