クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/09/26
8年前父が他界しました。
弱いくせに、お酒ばかり飲んでいたのが原因。
 
 私が高校生の頃から飲みすぎで肝不全になりかけて何度も救急車で運ばれ、入退院を繰
り返す日々。
 そんなとき、酔っ払っては暴れだす父に長年耐えてきた母が家を出て行った。

 それからの父は更にお酒を飲むようになって、何人もの職人さんを抱えてやっていた会
社も結局はなくなって。

 もうその頃には何度も意識がなくり、病院に運ばれ人工呼吸器までつけられるときも
あった、でもそのたびに持ち直して、退院してはまた飲んで・・・。

 そんなときが数年続いていて、もういい加減どうでもよくなっていた私は、病院にもほ
とんど足を運ばなくなっていた。

 心のどこかで、また持ち直して帰ってくると思っていたのだと思う。
 
 小さい頃はいつも父親についていって、常に父親と一緒にいたのに、あんなに大好き
だったのに。

 そんなある日、久しぶりに父親の病室に顔を覗かせた。
 すぐに帰るつもりだったけど、少ししんどそうだったので、ちょっとだけ長くそばにい
て話をした。

 少ない会話だったけど、私は父親に「もういい加減ちゃんとしよ、私もがんばるから、
お父さんもがんばろ」って。

それが遅すぎる最後の一言

 その翌日に意識がなくなってそのまま逝ってしまった。

 なんでもっと優しくできなかったんだろう、なんでもっと話さなかったんだろう。

 あんなに優しくしてくれたのに、あんなに可愛がってくれたのに。

何もしなかった自分に腹が立つし、後悔してる。
 
今更だけどお父さんごめんね。
 
いっぱい愛してくれてありがとう。

本当に本当にありがとう。
posted at 2012/09/26 0:04:18
lastupdate at 2012/09/26 0:04:18
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大好きだった君。

かれこれしつこく一年以上思い続けてゴメン。
でもちゃんと望みないこと知っててもこの気持ちは消えてくれないんだ。

理屈じゃないんだよね。

それでも君にこの気持ち伝えた。
色々考えたのに言えたのは『ずっと好きでした!付き合ってください』だけ。
笑っちゃうくらい短くて。
君は黙ってたよね…。私の気持ちきっと迷惑だったかな。

結果はやっぱり×。
私のあなたへの長い旅はやっと終わった。

君への気持ちが重くて毎日歩くのがとても大変だった。それでもあなたに触れたくて、話
したくて、声を聞きたくて頑張って歩いてた。

でも……
それも終わりだね。

私の気持ちは
あなたのおかげで死んだから。

ありがとう。私は今相変わらず不器用ながらにもゆっくり前に歩いてるよ。

傷付いた心を直しながらゆっくりと。

あなたには幸せになってほしい。

私は何よりもそれを願っています。
posted at 2012/09/26 0:04:18
lastupdate at 2012/09/26 0:04:18
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2012/09/17
最後の文字

2年前の8月10日、大好きだったじぃちゃんが亡くなりました。
私は小さい時からよくじぃちゃん家に泊まりに行ってました。泊まりに行くたびにいろん
な事を教えてくれました。
本当に優しくてみんなから頼りにされていて絶対にツライと言わない人でした。じぃちゃ
んの病名は「肝臓ガン」。その事は私の親夫婦と叔父夫婦だけにつげられました。私達孫
とじぃちゃんとばぁちゃんは何も知らず3年間は今まで通りの生活をしていたのでした。
しかし、だんだん病気が進行し入退院を繰り返すようになりました。検査入院だと本人や
周りに嘘をついていた叔父夫婦や親夫婦もとても辛かったと思います。じぃちゃんはお見
舞いに行くたびに決まって「いつ帰れるんだ」と聞いていました。早く帰って仕事がした
いと…そんな体じゃなかったのに…お腹が妊婦さんのようにふくれあがりご飯が食べれな
くなって息も苦しそうで家に帰ってきても寝てるばかりでした。そして、ツライはずなの
に明るく笑うのです。そして最後の入院。その時に私達やばぁちゃんに「今度が最後の入
院だ」と言う事がしらされました。実感がわかず、ただ早く病院に行きたいと思いまし
た。

1週間後じぃちゃんは亡くなりました。じぃちゃんの最後は親戚みんなにみとられ静かに
最後までツライと言わず安らかな顔でじぃちゃんらしく亡くなりました。
じぃちゃんの人柄かお葬式にはたくさんの人が来てくれてみんな泣いて悲しんでくれまし
た。みんなじぃちゃんに感謝していました。

後日、遺品整理をしていると一冊のノートがでてきました。それはツライ中もうろうとし
た意識の中で書いたノートでした。そこには「もうかんねんした。泣き父母弟が迎えにき
た。もう長くない…(自分が病気なのを)黙っていたのはすべて私を思ってのため、辛かっ
ただろう。ありがとう。もうあきらめよう。楽しかった。ありがとう…」と、最後に入院
する日に家で書いたらしい…じぃちゃんは全部わかってたんだ…だから最後の入院では家
に帰りたいって言わなかったんだ。
もっといっぱい喋ればよかった。
もっと優しくすればよかった。
もっと感謝すればよかった。

でも、いつか言ってた「すぐツライと言うのはほんとはツラくないんだよ」って。その言
葉忘れない。
優しい気持ち忘れない。
じぃちゃんみたいにみんなに頼られて誰にでも優しくて明るくてがまん強い人になる。あ
りがとう。じぃちゃん…忘れないよ…
posted at 2012/09/17 0:15:57
lastupdate at 2012/09/17 0:15:57
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2012/09/14
うちの親父はかなりボケが進み 脳味噌プリン状態
息子である俺の顔もわからんようだが台所に立たせると
スイッチが入ったかのように豹変し、マシーンのように一切無駄な動きをせずに
酢飯の仕込みから魚の捌きまでを黙々とこなし
現役時代となんら変わることのない熟練の手つきで寿司を握る

その時、親父には家族は客にしか見えてないようで普段のフガフガした口調とはガラリと変わり
威勢のいい声で「へいらっしゃい なに握りやしょうか?」
おかげで我が家は月に一度、達人の本格江戸前寿司を味わえるのであった

初めはボケの進行を抑えるためのリハビリの一環のつもりだったが
さすがは13歳から寿司を握り続ける父
ボケてもなお衰えぬその手さばきには感嘆を漏らすしかなかった
「ホントにあんたは寿司バカなんだねぇ」
とは、いつも涙をぬぐいながら寿司を食べる俺の母の談である
posted at 2012/09/14 0:34:17
lastupdate at 2012/09/14 0:34:17
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今でも、思い出すと罪悪感で一杯になるんですが…忘れないために書きます。
高校一年の頃、母は病気で車を運転したり、台所に立つのも困難でした。
父もその頃は普及しはじめた携帯での出会い系(当時は携帯会社公式のメル友を募集する
コーナーがあった)で遊ぶようになり、収入はなく、養護学校に通う弟のこともあって学
校を辞めること、自分もバイトして稼がなくてはいけないことにプレッシャーがありまし
た。
全てが、自分の肩にかかるのだと。
とりあえず三学期一杯は学校に通い、バイトを始めました。
初めてのバイトであまりうまく行かず、疲れだけを感じてたある日、父がバイト先に迎え
に来ました。
帰りにすき家で牛丼を食べたのですが、家にいる母と弟のことまで気が回りませんでし
た。
家に帰ると食事をしてない二人。冷蔵庫はほぼ空に近く、自分のことばっかりな自分と、
二人のことを無視する父に腹が立ちました。
情けなくて、自分たちの帰りを待ってた二人に申し訳なくて、今思い出しても泣きたくな
ります。

母はその二年後にあちらへ逝き、ばらばら気味だった家族が一緒にいることは叶わなくな
りました。
あの時、どうして家で食べると言わなかったのか。
どうして二人の分を持ち帰ろうとしなかったのか。
牛丼を見る度、あの時の二人の顔を思い出して痛いです
posted at 2012/09/14 0:34:17
lastupdate at 2012/09/14 0:34:17
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2012/09/13
小学5年生になったある日、祖母が親戚の法事で遠く離れた親戚の家に泊まりで行った。
その頃、祖父は病気で入院していた。
祖母は3日間位で帰ってくる予定だったのに、心臓が悪かった為倒れてあっちの病院に入
院してしまった。病状がかなり悪かったらしく、手術をしてしまうはめになり、思ったよ
り入院は長くかかってしまった。 その頃、地元では祖父の容態が急変しそのま
ま帰らぬ人となってしまった。
祖父が亡くなって1か月後、祖母が退院して地元に帰ってきた。祖母は、心臓に悪いから
と祖父が亡くなった事を知らされてなかった。仏壇の前に連れて行かれ、始めは何が何だ
か分からないという感じだったが、ようやく現実を受け止めたようで、仏壇の前にしゃが
みこんで大きな声で泣いていた。
それを陰から見て、私は幼いながらも涙が止まらなかった。
今になっても、その時の光景が頭から離れない。
posted at 2012/09/13 0:08:48
lastupdate at 2012/09/13 0:08:48
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2012/09/08
少し昔話になります。私にとって弁当の思い出と言えば、中学生のころの土曜日(部活用)高校時代の毎日の昼食です。

朝起きると聞こえる包丁の音やフライパンで調理している音、歯を磨き、着替えをしているとただよってきたいろんな香り、「おっ、今日のおかずは○○かな」と思って台所へ行くと、予想通りのおかずがあり、ふたを開けた弁当箱から上がっていたゆげ、それらが鮮明に思い出されます。

以前、TVか雑誌に「コンビニ弁当とおふくろさんの手作りの弁当とどちらがいいか」というアンケートをやっていました。なんと、コンビニ派が半数を超えていました。そして、昨日の家庭科の時間にふと、その話題を投げかけると、「そりゃあコンビニや」という声も少なからずありました。私も高校生のころ、「今日のおかずは、これでもかというほどの野菜いためやったな」なんて母親に悪態をついていたものです。

でも,味が問題ではないのです。朝のあの音、あの香り、あのゆげの中には、たくさんのものが含まれていたような気がします。
posted at 2012/09/08 0:00:38
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私は戦時の中、幼少時代をすごしました。
物心ついたときには母親はおらず、父は兵隊に取られ
祖父と2人田舎で暮らしていました。
家のすぐ脇には河が流れており、200mほど河を下ったところには
捕らえられた米兵を収容している建物がありました。

とある日のこと、私が芋を河で洗っていると誤って
手を放してしまいその芋を河に流してしまいました。
その芋はたまたま下流で水浴びをしていた米兵達によって
拾われました。
米兵は自分達に向かって流してくれたものだと思い
喜んで私に手を振って芋を持って帰りました。
きっとひどい扱いを受けていたのでしょう。

それから私は定期的に川下にいる米兵達に回りには
分からないように、野菜を河に流して渡すようになりました。

やがて戦果も悪化して日本軍が不利な状況になるにつれて
食糧事情は厳しいものとなりました。
もともと私と祖父の2人暮らしだったため食料で困ることは
ありませんでしたが、米兵達に食料を分け与えることは
出来なくなりました

申し訳ない気持ちになりながらもいつも食料を流している
時間私はいつものように川岸まで行きました。
いつものように200m川下では米兵達が待っています。
近づくのは禁止されていたため当然話をすることも出来ません。
ジェスチャーで分け与える食料が無いことを伝えようと、
手を大きく振ってバツマークを作って食料が無いことを伝えます。
しかし上手く伝わらず米兵達は手を振り帰してきます。
そんな私が流す食料を楽しみにしている米兵に
何もして上げられない無力な自分に腹がたち河の水を
蹴り上げると米兵も同じように真似をします。
今度は河の中で飛び上がってみるとやはり米兵達は
私の真似をします。
何とかしてあげたい。そう思いました。

私は自分の家の畑から祖父の目を盗み少しですが
スイカやかぼちゃを取り今までと同じように河に流して
米兵に渡しました。

しかし数日後スイカを取っているところを祖父に見つかり
理由を聞かれました。
私は正直にこれまでのいきさつを話しました。
すると祖父はこう言いました。
「なるほど。お前は非国民だが非人間ではないな。」
そう言うとそれ以降畑から取った野菜を河に流して
米兵に渡すことを許してくれました。

やがて終戦を迎えたある日のこと、家の上空を数機の
戦闘機が飛来してきました。
米兵を収容していた建物があったためひどい扱いを
受けていた米兵が仕返しに空襲に来たに違いない。
祖父はそう言いました。
しかし私はそんなこと無いよ。そんなこと無いよ。
と言いました。
あの米兵たちがそんなことをするとは思えなかったのです。
やがて戦闘機からたくさんの金色や銀色の小石くらいの
大きさの物が振ってきました。
爆弾だ!
祖父は言いました。
しかし何も爆発しません。
空から振ってきたものは金銀色の紙に包まれた
チョコレートでした。
なおもチョコが降り続きました。
星のように。
posted at 2012/09/08 0:00:38
lastupdate at 2012/09/08 0:00:38
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2012/09/07
携帯電話の解約の仕方を知らなかったのでお客様相談センターに電話。
解約する理由を聞かれ「友達がいないので」と答えてしまった。2年も前の出来事なのに
昨日のことのようにくぁswでfrgtひゅじkろp;@:「」
posted at 2012/09/07 0:02:12
lastupdate at 2012/09/07 0:02:12
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俺今大学2年で、進学の関係で地元を離れて一人暮らししてるんだけど、
昨日バイトが終わって家に帰ってきたら、家の玄関前に誰かいるんだよ。なんか体育座りしてうつ向いてる感じ。危ない人かなーって思ったけど、自分の部屋の前だったし、ちょっと近づいて見たら、急にその相手が顔を上げて、
「遅いっ!もう11時だぞっ!」って言ってきた。
地元に残ってるはずの彼女だった。なんの連絡もなしに来たらしい。
もう馬鹿かと。まだ2月なのに何時間外で待ってたんだよと。でも、
「びっくりした?」
って、無垢な表情で言ってくるんだから、怒る気にもならないね。

まぁ、せっかく来たんだから、明後日はディズニーランドにでも連れていこうと思ってる。
posted at 2012/09/07 0:02:12
lastupdate at 2012/09/07 0:02:12
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