クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/10/27
私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。

友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。

ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。

すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。

私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。

母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。

それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。

母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。

「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。

後悔で涙がこぼれた。

お母さん かあちゃん カーチャン
posted at 2012/10/27 0:01:54
lastupdate at 2012/10/27 0:01:54
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2012/10/20
ベトナム戦争から家に帰る前夜、青年兵士は自宅に電話した。
「明日帰るんだけど、他に行くところがない友達を連れて帰りたいんだ。家で一緒に住んでもいいかな?」
息子の帰還報告に狂喜した両親は、「勿論!」と泣きながら答えた。

「でも、一つだけ言っておきたいことがあるんだ。彼は地雷を踏んでね、腕と足を失ってしまったんだよ。でも、僕は彼を家に連れて帰りたいんだ。」
その台詞に、両親は押し黙ってしまった。

「数日ならいいけれど、障害者の世話は大変よ。家にいる間に、そのお友達が住める所を一緒に探しましょう。あなたにも私たちにも自分達の人生があるのだから、そのお友達の世話に一生縛られるなんて無理よ。」
やっとのことで母親がそれだけ言うと、息子は黙って電話を切った。

翌日、警察から電話があり、青年兵士の両親は彼がビルの屋上から飛び降りて死んだことを知らされた。
死体と対面した両親は絶句し、泣き崩れた。
腕と足を失ってしまったのは息子だったのだ。
posted at 2012/10/20 0:13:34
lastupdate at 2012/10/20 0:13:34
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2012/10/15
「父親との出会い」というのも変な話ですが、私の中ではとても大きな存在なのです。

5年生になったばかりのある日、私は本屋に連れて行ってもらいました。そこで見つけた問題集。私は欲しくなりました。勉強が好きだったわけではありませんが、ちょうど大学入試を控えた姉がいた影響だろうと思います。「ねえ、これ買ってよ。」と父に頼みました。父は、「これはけっこう難しい問題集だぞ。ちゃんとできるか?」と言いましたが、とにかくそれが欲しかった私は「1日1ページすれば楽にできる。」と言って買ってもらいました。

それから2週間ほどたったある日のことです。私は遊び疲れて、その問題集もせずに寝ていました。「明日まとめてすればいいや。」と考えていたのです。

その晩遅くに、父は帰ってきました。そして、テーブルの上にあった問題集を見て、その日の分が終わっていないのを確認するやいなや、私をたたき起こしました。「今日の分はどうした!今からやれ!」と。私は半分寝ぼけていましたが、言い訳できませんでした。言い訳の通じる父ではなかったからです。

私は、半泣きの状態で問題を解き始めました。運悪く、その日のページは「まとめ」のページで、どこそこの入試問題やら難問やらが並んでいました。しかも、父はどっしりと私の前に座っています。どうしても解けない問題があり、私は観念して父の顔を恐る恐る見上げました

ところが父は「なかなかできとるなあ。その難しい問題はな…」と言いながらていねいに教えてくれました。なぜだかわからないけれど、すごくよくわかりました。厳しさの中に、優しさがありました。断っておきますが、父は決して教育パパではありませんでした。ただ、「自分の言葉に責任をもて」と言いたかったんだろうと思います。「(男が)言い訳なんかするな」という言葉を、それまでにもよく聞きましたから。

父はよくキャッチボールの相手もしてくれました。やはり5年生の頃、「おい、あいつの球、すごく速くなったぞ。手が痛くてかなわん。」というようなことを、私にではなく、母によく言っていたようです。今にして思えば、どうして直接私に言ってくれなかったのだろうと思いますが、父親ってものは、どうもそんなところがあるようです。

父は、その年(5年生)の10月に、あっけなく他界しました。今でも時々、問題集と格闘していたあの日のことを思い出します。また、「父と酒を飲んでみたかったなあ。」とも思います。でもそれは、言ってもしかたのないことです。今は、我が子供たちのためにも、1日でも長生きしたいと思っています。
posted at 2012/10/15 0:01:32
lastupdate at 2012/10/15 0:01:32
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2012/10/13
これはほんまの実話です。彼女がレイプされました。これを聞いたとき気がおかしくなり
そうでした……。彼女は泣きながら僕に抱きつき必死にあやまっていました。なんで○○
(彼女の名前)があやまるねん……付き合ったときから彼女をまもるってきめてたのに。
体が弱くてすぐ熱だしたりして、会いにいったらすっごい元気なふりして……レイプされ
てからあんまり笑わなくなった。抱き締めた彼女の体に残ったアザが悲しくて、泣き付い
てる彼女にかける言葉がみつけられんくて、抱き締めるしかなかった。……うらんだ。こ
んなにキレイな子を……なんで……。だれでもよかったんかな?夜とかわざとぶつかって
絡んできたやつボコボコにして……残ったのは何にもない。
そんなことやってたら、親友が彼女に言って、彼女に大分おこられた。また私をまもって
よ。って言われた。いったい何やってたんやろ。自分の間違いを一瞬で気付かせてくれ
た。
僕がしたいことは犯人ぼこることでもないし、いい大学いくことでもない。
彼女を幸せにしていこう!!!いつかいやなこと全部忘れさせてあげるからなぁ!!
大事な人。いる人は頑張って幸せにしましょーね!
posted at 2012/10/13 0:43:20
lastupdate at 2012/10/13 0:43:20
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2012/10/09
付き合ってた彼氏は、家に遊びに行った時に1回だけホットケーキを作ってくれた事が
ある。弱火でじっくり焼くだとか、焦げ目がつくまで焼くだとか、細かいトコまでこだ
わってた。そのホットケーキは今まで食べたホットケーキの中で1番おいしかった。で
も、もうあのホットケーキは食べれないんだと思うと涙が出てくる。もう食べる事はない
けど、あのホットケーキの味は忘れないよ。
posted at 2012/10/09 0:12:13
lastupdate at 2012/10/09 0:12:13
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19、20歳の時、一人暮らしの女の家に転がり込んで
一緒に生活を始めた。
好きな時に帰って、好きな時にエッチをして、好き放題していた。
そんなちゃらんぽらんな事ばかりしていたので、その女に子供ができてしまった。その時
の俺は、堕ろすことしか頭になかった。
それが当たり前だと思っていた。
手術日の前日の夜、女の家の机の上に一通の手紙が置いてあった。

「パパへ
 初めまして、私はこころといいます。
 今はまだ、ママのおなかの中にいます。
 こころは、パパのお顔を見てみたかったです。
 こころのお顔も見てほしかったです。
 パパはこころのことが大嫌いで会いたくないのかも知れませんが、
 こころはパパのことが大好きです。
 こころはお空の上からパパのことを見ているので、
 パパもこころのことを忘れないで下さい。
 こころはパパのことが大好きでした。
 こころ より」

俺はぼろぼろと泣きながら、何回も読み返した。
どうすることもできない自分が情けなかった。
けなげに寝ている彼女の姿を見て、また泣いてしまった。

今は別の女と結婚して、2児の父親になった。
今でもこころのことを思うと、切なくなってしかたがない。
posted at 2012/10/09 0:12:13
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2012/10/08
79 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/11/29(日) 17:20:08.77 ID:U4EZoPQ90

ばあちゃんのぼけは日に日に進行してゆき、次第に家族の顔もわからなくなった。
お袋のことは変わらず母ちゃんと呼んだが、それすらも自分の母親と思い込んでいるらしかった。
漏れと親父は、ばあちゃんと顔を合わせるたびに違う名前で呼ばれた。

あるとき漏れがお茶を運んでいくと、ばあちゃんは漏れに
駐在さんご苦労様です、とお礼を言って話しはじめた。

「オラがちにも孫がいるんですけんど、病気したって見舞一つ来ねえですよ…
昔はばあちゃん、ばあちゃん、てよくなついてたのにねえ…」

そう言ってばあちゃんが枕の下から取り出した巾着袋には
お年玉袋の余りとハガキが一枚入っていて、よく見てみるとそれは
漏れが幼稚園の年少のとき敬老の日にばあちゃんに出したもので、
「ばあちゃんいつまでもげんきでね」なんてヘタクソな字で書いてあったものだから、
漏れはなんだか悔しくて悔しくて、部屋を出た後メチャクチャに泣いた。
posted at 2012/10/08 0:17:56
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2012/10/03
記憶に新しい新潟県中越地震、オレはその被災者だ。
地震が起きる数時間前の事だった。その日は選手権の県予選があり、勝利した後であっ
た。
地震後オレは友達と連絡を取りみんなの無事を確認した。しかし4人程連絡を取ることが
出来なかったのだ。
1日…また1日と日にちが過ぎ、5日後2人の無事が避難所で確認出来た。しかし残りの
2人はいなかった。
メール、電話、伝言ダイヤル、掲示板。色々な手段を使った。
結局連絡のないまま学校も部活も始まった。顧問に教室に集められ1人の無事を聞いた。
「A君は?」と尋ねた。顧問は鞄から袋に包まれた携帯を取り出した…A君の物だった。
『みんなへ 今までありがとう。』顧問が読みあげた。A君は家具の下敷になっていたら
しい。薄れ行く意識の中で打ったのだろう…
部員みんなが泣いた。ほんの数時間前まで一緒にプレーしていた仲間だった…
今、部室にはみんなで写った最後の写真が張ってある。見る度にオレは涙が落ちる。

新潟県中越地震は皆は忘れたいと思っているだろう…でもオレは永遠に忘れる事は無いだ
ろう…同じプレイヤーだったA君と共に語り継ぐだろう…
posted at 2012/10/03 0:13:26
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2012/10/02
私の前の上司(課長)は無口、無表情。雑談には加わらず、お酒も飲まず、人付き合いをしない堅物でした。
誠実公平、どんな時でも冷静なので頼もしい上司なのですが、堅過ぎて近寄りにくい雰囲気がありました。
そんな課長の机の上には奥さん、子供四人と写った写真が飾られてて、
「あの朴念仁でも家族は愛してるんだな」と微笑ましく思ったものです。
何年経っても同じ写真が飾ってあったので、理由を聞いてみたら、
「一番かわいかった頃の写真だからね」と照れ笑いを浮かべながら答えてくださいました。
それが私の見た唯一の課長の笑顔でした。

そんな真面目一徹、入社以来無遅刻無欠勤の課長が三日続けて無断欠勤。
家に電話しても誰も出ず、親族の連絡先も分からなかったので、
部長が直接課長のマンションを訪ね、管理人さんにお願いしてドアを開けていただきました。
課長は玄関で倒れていて、既に冷たくなっていました。急性心不全だったそうです。
部長が管理人さんに課長の家族がいつ戻ってくるか聞くと、「○○さんには家族はいないですよ」という返事。
あわてて人事部の資料をほじくり返すと、確かに課長には家族がいません。
課長は10年前に中途入社した人なので、それ以前に家族に逃げられていて、写真を見て幸せだった時代を懐かしんでいたんだと思い、少し悲しくなりました。
結局、課長の葬儀にも家族も親族も顔を出さず、血縁の人たちの冷たさにもっと悲しくなりました。

後日墓参りに行くと、立派なお墓が立っていました。死んでやっと家族と和解できて、立派なお墓を立ててもらえたのかと安心して墓石を見てみると、愕然としました。
お墓は古びていて、課長と同じ名字の名前が墓誌にいくつも彫ってありました。
課長以外は全員十数年前の同じ日に亡くなっていました。

家族を一度に亡くしてからの十数年の歳月を、彼はどんな気持ちで過ごしていたんでしょうか?
二度と会えない家族の写真をどんな思いで毎日眺めていたんでしょうか?
人を遠ざけ、自分のことを決して語らなかった課長の姿を思い出し、涙が止まりませんでした。
posted at 2012/10/02 0:03:28
lastupdate at 2012/10/02 0:03:28
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数年前に亡くなった私の祖父は、とても無口な人でした。
よく口を「へ」の字にして、腕を組んで座っていたせいか、親戚の子供たちからは「怖いお
じちゃん」と呼ばれ、「おじちゃんがいるなら遊びに行かない」とまで言われてました。
母親もその姉妹も、実の父なのに抱っこしてもらったり、あやして遊んでもらった記憶が
あまり無いと言っていました。
私は祖父のことを嫌いではなかったけど、遊んでくれるわけでもないのでどちらかという
と祖母になついていたのですが、
ある日、たまたま家に祖父と私だけしかいなかった時。
一人でもくもくと本を読む私に祖父が
「飴食うか?」
と言ってきました。
「食べる」といってもらった飴はミルク味ののど飴。
のど飴があまり好きじゃなかったけど、無理して1つ食べました。
そしてまた本を読んでいると、祖父が
「飴もっと食うか?」と。
あまりしゃべらない祖父が話しかけてくるのが少し嬉しくて、本当は苦手なのど飴を「お
いしい」と言ってたくさんもらいました。
それから祖父は、私をみかけると飴をくれるようになりました。
今思えば、祖父は孫としゃべるきっかけを探していたんでしょうね。

祖父が亡くなる少し前、就職活動中だった私は、父親がいなくて金銭面で祖父にお世話に
なっていたこともあり、久しぶりに祖父の家に行き、進路を相談してみました。
相談といっても、無口で半寝たきりの祖父にたいしたアドバイスは期待していなかった
し、とりあえず報告と思って話したんですが。
でも祖父はしっかりとした口調で、たくさん私と話をしました。
祖父は私のことをなんでも知っていました。
小さい頃からの細かい私の変化を、すべて知っていました。
そして、
「高校の頃は少し信用できなかったけど(少し荒れてたので)、
最近は落ち着いてきた。好きにやればいい」
と言ってくれました。
高校時代、不安定だったとはいえ、祖父にその姿を見せたことはなかったはずなのに・・・
びっくりしました。

長くなりますが、2へ続きます・・・
その後、祖父の容態は徐々に悪化し、私の就職が決まる頃には、病院のベッドに寝たきり
になってしまっていました。
威厳のあった祖父が、看護婦に子供のように扱われ、食事が取れないため入れ歯の抜かれ
た口に小指の先ほど小さな氷のかけらを入れてもらい、もごもごとしているのを見て、と
てもショックで、悲しくなりました。
その姿を見たくなく、お見舞いの足も遠のいていきました。

ある日、学校にいた私に母から連絡が入りました。
「おじいちゃんが、もうダメかもしれない。
 アンタの名前を呼んでる」
急いで祖父のもとへかけつけると、母が「おじいちゃん、○○(私の名前)がきた
よ!!」と言いました。
薬の副作用で脳がぼんやりしている祖父に
「おじいちゃん、会社が決まったよ!」と報告すると、目をあけて「わかった」というよ
うに少し首をふってくれました。
それ以来、祖父の意識はますます朦朧とし、言葉を話すことができなくなりました。
祖父の最後の一言が、私の名前になりました。

亡くなってから、何気なく祖父の部屋にあった海苔の缶をあけると、中にはたくさんの飴
が入ってました。
祖父が半寝たきりになる前に、大好きなパチンコに行った帰りに、買ってきたのでしょ
う。
私が、忙しいことを理由に祖父の家に遊びに行かなくなっても、祖父は飴を買っていたの
です。
もっともっと、おじいちゃんと話せばよかった。
いろんな相談をすればよかった。
たくさん後悔がおしよせました。

今でも、飴を食べるときは祖父のことを思います。
月命日にはなるべくお墓参りに行きます、祖父の好きな黒飴とミルクのど飴を持って。
posted at 2012/10/02 0:03:28
lastupdate at 2012/10/02 0:03:28
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