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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。
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2011/08/15
[泣ける話]
939 :大人の名無しさん :04/06/07 11:15 ID:hqAE586k
親と喧嘩をし、「出て行け」と言われ家を飛び出して6年。
家を出て3年後に知り合った女性と同棲し2年後に子供が出来た。
ものすごく嬉しかった。
母性愛があると同じように父性愛というのもあると気付いた。
子を愛さない親は居ないと言うのも知った。
妻の検診の日は毎回産婦人科まで一緒に行った。
エコーで動きを見た日は遅くまで妻とこの子の名前や性別を考えていた。
初めて聞いた元気な心音に「父さんはおまえの為にがんばる」と誓った。
何もかもが順調だと思ってた。
予定日の1ヶ月前に妻が破水をした。
切迫流産の前兆だったそうだ。
妻も元気で何も問題なんて無いと思っていただけにビックリした。
嫌な言葉が蘇った。
「八月子はもたない・・・」
940 :大人の名無しさん :04/06/07 11:15 ID:hqAE586k
詳しい検査をした時に娘の心音に雑音が混ざっている事が分かった。
母子ともに危険な状態になった為、緊急手術で帝王切開する事になった。
よく晴れた10月に君は生まれた。
最初は小さく泣いたらしい。
けど自発呼吸が出来なかったため、
器官に酸素供給するための管を通す事になった。
その後の事は覚えてるけど良く覚えてない。
何処からが現実で何処までが現実じゃないのか。
初めてNICUで見た娘の姿に涙が出そうになった。
娘にかけた最初の言葉が「生まれてきてくれて有難う」.
その後、母親に連絡を取った。
母親の声を聞いたのは実に何年ぶりだろう。
初めて人前で泣いた。
母親にも見せたことの無い涙を見せた。母親も泣いてくれた。
「孫娘には何の罪も無いのに何故・・・」と。
941 :大人の名無しさん :04/06/07 11:17 ID:hqAE586k
色々医師から説明を受けた。絶望って眩しくも、真っ暗でもなかった。
いつもの生活が私と妻を追い立てた。
娘は管から母乳も飲み、オムツも替えさせてもらい、
名前も付けてやれたし、出生届も出せてやれた。
戸籍上も私の娘。可愛い。
医師からの突然の電話。
最初で最後、娘を抱っこしてあげれた。涙が出そうになった。
だけど泣かなかった。泣く必要は無いと自分に言い聞かせた。
18日間、娘は良くがんばった。
妻と二人で娘を荼毘に出し、小さな骨壷に骨拾いをした。
やっと娘は父と母が住む家に帰ってこれた。
942 :大人の名無しさん :04/06/07 11:20 ID:hqAE586k
最近はやっと落ち着いてきた。
けど、まだ気持ちの整理はついていないのだろう。
親と喧嘩をし、「出て行け」と言われ家を飛び出して6年。
家を出て3年後に知り合った女性と同棲し2年後に子供が出来た。
ものすごく嬉しかった。
母性愛があると同じように父性愛というのもあると気付いた。
子を愛さない親は居ないと言うのも知った。
妻の検診の日は毎回産婦人科まで一緒に行った。
エコーで動きを見た日は遅くまで妻とこの子の名前や性別を考えていた。
初めて聞いた元気な心音に「父さんはおまえの為にがんばる」と誓った。
何もかもが順調だと思ってた。
予定日の1ヶ月前に妻が破水をした。
切迫流産の前兆だったそうだ。
妻も元気で何も問題なんて無いと思っていただけにビックリした。
嫌な言葉が蘇った。
「八月子はもたない・・・」
940 :大人の名無しさん :04/06/07 11:15 ID:hqAE586k
詳しい検査をした時に娘の心音に雑音が混ざっている事が分かった。
母子ともに危険な状態になった為、緊急手術で帝王切開する事になった。
よく晴れた10月に君は生まれた。
最初は小さく泣いたらしい。
けど自発呼吸が出来なかったため、
器官に酸素供給するための管を通す事になった。
その後の事は覚えてるけど良く覚えてない。
何処からが現実で何処までが現実じゃないのか。
初めてNICUで見た娘の姿に涙が出そうになった。
娘にかけた最初の言葉が「生まれてきてくれて有難う」.
その後、母親に連絡を取った。
母親の声を聞いたのは実に何年ぶりだろう。
初めて人前で泣いた。
母親にも見せたことの無い涙を見せた。母親も泣いてくれた。
「孫娘には何の罪も無いのに何故・・・」と。
941 :大人の名無しさん :04/06/07 11:17 ID:hqAE586k
色々医師から説明を受けた。絶望って眩しくも、真っ暗でもなかった。
いつもの生活が私と妻を追い立てた。
娘は管から母乳も飲み、オムツも替えさせてもらい、
名前も付けてやれたし、出生届も出せてやれた。
戸籍上も私の娘。可愛い。
医師からの突然の電話。
最初で最後、娘を抱っこしてあげれた。涙が出そうになった。
だけど泣かなかった。泣く必要は無いと自分に言い聞かせた。
18日間、娘は良くがんばった。
妻と二人で娘を荼毘に出し、小さな骨壷に骨拾いをした。
やっと娘は父と母が住む家に帰ってこれた。
942 :大人の名無しさん :04/06/07 11:20 ID:hqAE586k
最近はやっと落ち着いてきた。
けど、まだ気持ちの整理はついていないのだろう。
posted at 2012/03/14 22:50:04
lastupdate at 2012/03/14 22:50:04
【修正】
2011/08/05
[泣ける話]
【相談】
私には精神障害を持つ兄がいます。封建的な地方の住まいで、周りからも偏見も多く結婚にも支障が出ています。付き合っていた相手の親に、兄のことを悪く言われたり身辺調査されたりしてきました。人並みに恋愛もしてきましたが、このままだと結婚できないかもとも思ったりします。両親も頼りにならず将来の不安ばかりが襲ってきて、やりきれない気持ちになります。(28歳・派遣社員)
【答え】
あなたはラッキーだったんですよ。大災難から逃れられたんだから。
お兄さんへの偏見に限らず、世の中には多くの偏見があるけど、偏見をもつことを恥と思わない、それ以前に偏見を自覚していない連中は、しょせんクズのレベルでしかありません。
“類は友を呼ぶ”というように、そういうレベルの人は同じようなレベルの人とくっついて「自分達が低レベルな知性しかもたず生きている」ことすら気づかないで一生を終えるわけ。そんな連中と家族の契りを結ぶような不幸がおこらなくてよかったじゃないの。
結婚後にお兄さんの障害がわかったらどうなっていたことか。またはお兄さんが障害をもってなくても、そんな低レベルな人たちのところに嫁に行ったらどうなっていたか。想像して御覧なさい。
そういう視点で見れば、お兄さんは相手の男とその家族がクズかどうかを判別してくれるリトマス試験紙のようなありがたい存在だともいえるわけ。あなたが、ろくでもない人間と長いことかかわらないですむのは、お兄さんのお陰でもあるのです。
少数派ではあるけれど「お兄さんはお兄さん。あなたはあなた」ときちんとらえることができる、中身のしっかりした人だって、この世にはいますよ。
ただ、あなたにはもっとやっかいな問題があります。
いちばんの大きな落とし穴といってもいいかもしれない。それはあなたが「結婚すれば幸福になる」「結婚しないと暗い将来しかない」と思い込んでいること。
友人知人古今東西の有名人まで、結婚して、絵に書いたようなバラ色の人生を送っている人がどれだけいるか。結婚してしあわせ一色になる夫婦なんて言うのは圧倒的に少数派であるということぐらい周りをみまわしてみればわかることです。
「結婚=幸せ」だったら、この世に離婚も不倫もないはずです。
他人と一緒になって添い遂げるということは、大いなる妥協と忍耐と諦めを引き受けなければならないっていうこと。その覚悟がないと「こんなはずじゃなかった」と愚痴ばかりこぼす人か「どこかに完璧な結婚生活がある」と結婚離婚を繰り返す人になります。
今のあなたでは結婚したとしても、二つのどちらかに転ぶでしょうね。
一人で生きていこうと、連れ合いとで生きていこうと、人生は困難の連続です。だからお兄さんのことは一切関係ありません。
今の環境が嫌なんだったら、一人暮らしをして、結婚をしたいのなら、その困難を覚悟のうえで相手を探せばいいだけの話。独りで生きていくことを決めたのなら、他人が口を挟むことのほうが間違いです。
世間体とか周りの目なんて、ビタ一文もくれやしません。何か会ったら悪口をいうために存在しているのが世間なんですから。
posted at 2012/03/14 12:42:00
lastupdate at 2012/03/14 12:42:00
【修正】
2011/08/04
[泣ける話]
物心がついてからこっち、涙を流したことなんて二回しかない。本当さ。
一回は小学校6年の時。結構、本気で集めていた切手帳を、教室で盗まれちゃったときのことだ。今考えてみれば、使用済みの切手ばかりでケチな内容なんだけど、当時はまだ子供だったしね。本当にがっくり来て、自分が可哀相になって泣いちゃったんだな。
二回目は十七歳のときのことだ。いい年こいて、恥ずかしい話だけど。その時のことを話すよ。
ぼくの父親は救いようのないロクデナシでね。根っからの博打打ちなんだ。今時、珍しいと思われるかもしれないけど、本当さ。といってもヤクザ屋さんじゃないよ。一応カタギで、セールスマンをやってた。セールスするものは、その時どきで入れ替わり立ち代りするんだ。百貨辞典を売り歩いていることもあれば、ミシンを売っていたり、医学関係のビデオを病院に売りつけたり、まあ色々さ。
ぼくが中学の時には、インチキ洗剤をセールスして大もうけしたこともあった。これが、いわゆるネズミ講でね。けれど本当にウマイ話なんて世の中にはないのさ。結局、損をした会員たちが騒ぎ始めて、儲けた連中はオヤジを含めて世間から袋叩きにあって、もうケチョン、ケチョンだよ。その後、オヤジは競馬や競輪の違法仲介のノミ屋を始めるんだけど、そんな生活を繰り返していたおかげで、家の中はすっかり暗くなっちまった。
毎月末には借金返済を迫る電話がガンガン掛かってきたし、ヤクザ屋さんも取り立てにきたりさ。もう本当に参ったよ。それでもオヤジは博打を止めようとしなかった。そのうち麻雀に出かけるようになり、家にもあまり寄り付かなくなった。
オヤジが不在がちになり、稼ぎを入れなくなると、仕方なくお袋は給食センターみたいなところへ働きに出るようになった。家にはぼく一人だけがいるみたいな状況だ。
そんな毎日のなかで、ぼくの唯一の楽しみといったら、バイクに乗って当てもなく走り回るくらいのことだった。バイクといっても小型の80ccでさ。ヤマハのミニトレっての。高校二年のとき、一夏つぶして懸命にバイトして買ったのさ。青果市場から駅まで、トラックに積んだ桃を運ぶっていうバイトだった。
ありがたいことにお袋は、ぼくが自分で稼いだ金の使途については何も意見しなかった。ちょっと後ろめたかったけどさ。何しろ十七歳だったからね、ひとつくらい自分の楽しみがないと、気が狂いそうだったんだよ。
そして、高校三年の夏。ぼくはミニトレのシートにでかい箱をくくりつけて、お中元を配達するバイトをしていた。このバイトは桃運びに較べると、ペイも良かったし、何しろバイクにのることで金になるなんて夢みたいな仕事さ。
この夏家のほうは相変わらずでね。お袋は毎日朝から夜中まで給食センターだし、オヤジの奴は7月半ばから一度も姿をあらわさなかった。
9月になって、ぼくは夏の間に稼いだ金をお袋に見せ、使ってくれと申し出た。別に親孝行気取ってるわけじゃないよ。いつもお袋が働いているのに、自分だけがミニ乗ってフラフラしてる後ろめたさがあったからさ。
でもお袋は純粋に親孝行と受け取ったらしくてね。大変な喜びようだった。赤ん坊みたいな笑顔でさ。あんなお袋みたの初めてだよ。ところがお袋の奴、さんざんにハシャイだ末にこう言うんだよ。「ありがとう。でもこのお金はあなたが使いなさい」ってさ。
これにはぼくも驚いたね。まったく予想外だったんで、しばらく唖然としちゃったよ。お袋はお金の入った封筒をぼくの手へ握らせて、うれしそうに何度もうなずきながら台所へ引っ込んじゃった。
そしていつも通りにぼくの夜食を作りながら、何を思ったか、
「今度の日曜日、二人でどこかへ遊びに行きましょうか」
そんなことを言うんだ。
ぼくは少々面食らった。だって格好悪いじゃないか。いい年こいてオカアサンと一緒なんてさ。だから最初は「よせやい」とか言って回避しようとしたんだけど、意外にもお袋は執拗だった。あんまり言うもんだから、
「そんなこと言ったって、どこ行くのさ」
と訊き返すと、しばらく考え込んだ後に、
「動物園がいいな」なんて子供みたいなこと言うんだ。
「あなたのほら、オートバイで行きましょうよ。後ろへ乗れるんでしょう?そうすればバス代だって浮くし」
「ミニトレに?お袋と二人乗りかよ!」
あまりの提案に、ぼくは大笑いしてしまった。ぼくはさんざん笑って、赤面し、何度も断わった。けれどお袋はどうしても動物園に行くって言い張るのさ。
考えてみれば、お袋は昔から動物が好きでさ、犬とかネコとかをいっぱい飼いたいっていつも言ってたんだ。だけどぼくの家は犬猫ご法度のアパートだしさ。しかたなく、お袋はインコや金魚を飼ってたんだ。
だから、まあ動物園に行きたがる気持ちもなんとなく分かるじゃないか。可哀相なんだよ。毎日毎日何の楽しみもなく給食センターで働いてさ、皿洗いのやりすぎで指紋がなくなっちゃうほど頑張ってるんだから。
「しょうがねぇなぁ」
だから最後には、ぼくのほうが折れたのさ。恥ずかしいのを我慢して、お袋の奴をちょっとだけ喜ばしてやろう。そう思ったんだ。
そんな経緯があって、次の日曜日。ぼくとお袋は連れ立って動物園に出かけた。ホント恥ずかしくて死にそうだったよ。動物園に車での二人乗りも恥ずかしかったけど、弁当のほうがもっと照れたな。
辺りを見渡すと家族連れはたくさんいたけど、ぼくらみたいな組み合わせは他にはいなかった。なのにお袋の奴はウキウキしちゃってさ、「たまご焼きも食べなさいよ」とか「こっちがシャケで、こっちが梅干」とか大声で言うんだ。ぼくはわざとふさぎこんで、不機嫌な表情でもくもくと食った。そうでもしなきゃ、この気恥ずかしさに耐えられそうになかったのさ。
ところが昼飯を食い終わってお茶を飲む頃になると、今度はお袋のほうが、不意に黙りこんだんだよ。どうしたのかな、と横目で様子を窺うと、お袋はちょっと目を潤ませていた。そしてゆっくりした口調でこう言ったんだ。
「お父さんとね、私、離婚したのよ。7月に」
ぼくは飲んでいたお茶を止めて、お袋の横顔を見つめた。
「・・・これはね、男と女のことだから。分かってくれるわね。あなたになかなか言い出せなくて困ってたんだけど。平気よね。あなたもすっかり大人になって、お父さんの代わりに稼いだりしてくれるものね」
そこまで話すとお袋はぼろぼろ涙をこぼした。
「このあいだ、あなたがアルバイトしたお金を渡してくれたとき、本当にうれしかった。私、そんなこと全然考えていなかったから・・・。本当に、そんなこと全然考えていなかったの・・・」
お袋は一生懸命微笑もうとし、けれど上手くいかずに顔をくしゃくしゃにして泣いた。
ぼくは何か言ってやりたくて仕方なかったけれど、一言も浮かんでこなかった。何ていうんだろう。お袋が自分の子供のように思えてきちゃったのさ。アルバイトで気楽に稼いだお金のことでこんなに感激するなんて。本当に良いことがずっとなかったから、この程度のことで泣いちゃうんだよ。
その後、ぼくらは黙って園内をまわった。その時の気持ち、うまく説明できないな。さっきまでは照れ臭くて仕方なかったのに、今度は逆に、誇らしいような気分になっていたのさ。要するにぼくは、お袋に連れられて、動物園にきたのではなく、お袋を動物園に連れてきたんだ。そういう気持ちになっていたんだよ。
ミニトレに跨り、エンジンをかける。サイドスタンドを外して、
「さあ、乗んなよ」
振り向いて、そう言う。
するとニ、三歩離れて立っていたお袋は、微笑んで小さくうなずいた。その様子が、妙に老け込んで見える。
「ああ、楽しかった」
お袋はぼくの腰に腕を回しながら、誰にともなくそう呟いた。ぼくは自分のベルトあたりで組み合わされているお袋の手を見た。皿洗いのやりすぎで、指紋もなくなり、ザラザラに荒れた手だ。
それを目にしたとたん、ぼくは声を放って泣き出したくなっちゃたんだよ。色んなことが申し訳なくて、お袋に謝りたくて、胸が詰まったんだ。ごめん、ごめん、って何度も胸の中で繰り返しているうちに、涙が流れて止まらなかった。
カッコ悪いよな。お袋を後ろに乗せて、ミニトレに跨ったまま、泣いているなんて。でもいいさ。ぼくのこと指差して笑う分には、いっこうに構わない。けれど、お袋のことを笑う奴はタダじゃおかない。これはぼくの大切なお袋だ。立派なお袋だ。誰にも文句なんか言わせない。
そんなふうにしてぼくは、十七歳の夏の終わりに心から泣いてしまったんだよ。
一回は小学校6年の時。結構、本気で集めていた切手帳を、教室で盗まれちゃったときのことだ。今考えてみれば、使用済みの切手ばかりでケチな内容なんだけど、当時はまだ子供だったしね。本当にがっくり来て、自分が可哀相になって泣いちゃったんだな。
二回目は十七歳のときのことだ。いい年こいて、恥ずかしい話だけど。その時のことを話すよ。
ぼくの父親は救いようのないロクデナシでね。根っからの博打打ちなんだ。今時、珍しいと思われるかもしれないけど、本当さ。といってもヤクザ屋さんじゃないよ。一応カタギで、セールスマンをやってた。セールスするものは、その時どきで入れ替わり立ち代りするんだ。百貨辞典を売り歩いていることもあれば、ミシンを売っていたり、医学関係のビデオを病院に売りつけたり、まあ色々さ。
ぼくが中学の時には、インチキ洗剤をセールスして大もうけしたこともあった。これが、いわゆるネズミ講でね。けれど本当にウマイ話なんて世の中にはないのさ。結局、損をした会員たちが騒ぎ始めて、儲けた連中はオヤジを含めて世間から袋叩きにあって、もうケチョン、ケチョンだよ。その後、オヤジは競馬や競輪の違法仲介のノミ屋を始めるんだけど、そんな生活を繰り返していたおかげで、家の中はすっかり暗くなっちまった。
毎月末には借金返済を迫る電話がガンガン掛かってきたし、ヤクザ屋さんも取り立てにきたりさ。もう本当に参ったよ。それでもオヤジは博打を止めようとしなかった。そのうち麻雀に出かけるようになり、家にもあまり寄り付かなくなった。
オヤジが不在がちになり、稼ぎを入れなくなると、仕方なくお袋は給食センターみたいなところへ働きに出るようになった。家にはぼく一人だけがいるみたいな状況だ。
そんな毎日のなかで、ぼくの唯一の楽しみといったら、バイクに乗って当てもなく走り回るくらいのことだった。バイクといっても小型の80ccでさ。ヤマハのミニトレっての。高校二年のとき、一夏つぶして懸命にバイトして買ったのさ。青果市場から駅まで、トラックに積んだ桃を運ぶっていうバイトだった。
ありがたいことにお袋は、ぼくが自分で稼いだ金の使途については何も意見しなかった。ちょっと後ろめたかったけどさ。何しろ十七歳だったからね、ひとつくらい自分の楽しみがないと、気が狂いそうだったんだよ。
そして、高校三年の夏。ぼくはミニトレのシートにでかい箱をくくりつけて、お中元を配達するバイトをしていた。このバイトは桃運びに較べると、ペイも良かったし、何しろバイクにのることで金になるなんて夢みたいな仕事さ。
この夏家のほうは相変わらずでね。お袋は毎日朝から夜中まで給食センターだし、オヤジの奴は7月半ばから一度も姿をあらわさなかった。
9月になって、ぼくは夏の間に稼いだ金をお袋に見せ、使ってくれと申し出た。別に親孝行気取ってるわけじゃないよ。いつもお袋が働いているのに、自分だけがミニ乗ってフラフラしてる後ろめたさがあったからさ。
でもお袋は純粋に親孝行と受け取ったらしくてね。大変な喜びようだった。赤ん坊みたいな笑顔でさ。あんなお袋みたの初めてだよ。ところがお袋の奴、さんざんにハシャイだ末にこう言うんだよ。「ありがとう。でもこのお金はあなたが使いなさい」ってさ。
これにはぼくも驚いたね。まったく予想外だったんで、しばらく唖然としちゃったよ。お袋はお金の入った封筒をぼくの手へ握らせて、うれしそうに何度もうなずきながら台所へ引っ込んじゃった。
そしていつも通りにぼくの夜食を作りながら、何を思ったか、
「今度の日曜日、二人でどこかへ遊びに行きましょうか」
そんなことを言うんだ。
ぼくは少々面食らった。だって格好悪いじゃないか。いい年こいてオカアサンと一緒なんてさ。だから最初は「よせやい」とか言って回避しようとしたんだけど、意外にもお袋は執拗だった。あんまり言うもんだから、
「そんなこと言ったって、どこ行くのさ」
と訊き返すと、しばらく考え込んだ後に、
「動物園がいいな」なんて子供みたいなこと言うんだ。
「あなたのほら、オートバイで行きましょうよ。後ろへ乗れるんでしょう?そうすればバス代だって浮くし」
「ミニトレに?お袋と二人乗りかよ!」
あまりの提案に、ぼくは大笑いしてしまった。ぼくはさんざん笑って、赤面し、何度も断わった。けれどお袋はどうしても動物園に行くって言い張るのさ。
考えてみれば、お袋は昔から動物が好きでさ、犬とかネコとかをいっぱい飼いたいっていつも言ってたんだ。だけどぼくの家は犬猫ご法度のアパートだしさ。しかたなく、お袋はインコや金魚を飼ってたんだ。
だから、まあ動物園に行きたがる気持ちもなんとなく分かるじゃないか。可哀相なんだよ。毎日毎日何の楽しみもなく給食センターで働いてさ、皿洗いのやりすぎで指紋がなくなっちゃうほど頑張ってるんだから。
「しょうがねぇなぁ」
だから最後には、ぼくのほうが折れたのさ。恥ずかしいのを我慢して、お袋の奴をちょっとだけ喜ばしてやろう。そう思ったんだ。
そんな経緯があって、次の日曜日。ぼくとお袋は連れ立って動物園に出かけた。ホント恥ずかしくて死にそうだったよ。動物園に車での二人乗りも恥ずかしかったけど、弁当のほうがもっと照れたな。
辺りを見渡すと家族連れはたくさんいたけど、ぼくらみたいな組み合わせは他にはいなかった。なのにお袋の奴はウキウキしちゃってさ、「たまご焼きも食べなさいよ」とか「こっちがシャケで、こっちが梅干」とか大声で言うんだ。ぼくはわざとふさぎこんで、不機嫌な表情でもくもくと食った。そうでもしなきゃ、この気恥ずかしさに耐えられそうになかったのさ。
ところが昼飯を食い終わってお茶を飲む頃になると、今度はお袋のほうが、不意に黙りこんだんだよ。どうしたのかな、と横目で様子を窺うと、お袋はちょっと目を潤ませていた。そしてゆっくりした口調でこう言ったんだ。
「お父さんとね、私、離婚したのよ。7月に」
ぼくは飲んでいたお茶を止めて、お袋の横顔を見つめた。
「・・・これはね、男と女のことだから。分かってくれるわね。あなたになかなか言い出せなくて困ってたんだけど。平気よね。あなたもすっかり大人になって、お父さんの代わりに稼いだりしてくれるものね」
そこまで話すとお袋はぼろぼろ涙をこぼした。
「このあいだ、あなたがアルバイトしたお金を渡してくれたとき、本当にうれしかった。私、そんなこと全然考えていなかったから・・・。本当に、そんなこと全然考えていなかったの・・・」
お袋は一生懸命微笑もうとし、けれど上手くいかずに顔をくしゃくしゃにして泣いた。
ぼくは何か言ってやりたくて仕方なかったけれど、一言も浮かんでこなかった。何ていうんだろう。お袋が自分の子供のように思えてきちゃったのさ。アルバイトで気楽に稼いだお金のことでこんなに感激するなんて。本当に良いことがずっとなかったから、この程度のことで泣いちゃうんだよ。
その後、ぼくらは黙って園内をまわった。その時の気持ち、うまく説明できないな。さっきまでは照れ臭くて仕方なかったのに、今度は逆に、誇らしいような気分になっていたのさ。要するにぼくは、お袋に連れられて、動物園にきたのではなく、お袋を動物園に連れてきたんだ。そういう気持ちになっていたんだよ。
ミニトレに跨り、エンジンをかける。サイドスタンドを外して、
「さあ、乗んなよ」
振り向いて、そう言う。
するとニ、三歩離れて立っていたお袋は、微笑んで小さくうなずいた。その様子が、妙に老け込んで見える。
「ああ、楽しかった」
お袋はぼくの腰に腕を回しながら、誰にともなくそう呟いた。ぼくは自分のベルトあたりで組み合わされているお袋の手を見た。皿洗いのやりすぎで、指紋もなくなり、ザラザラに荒れた手だ。
それを目にしたとたん、ぼくは声を放って泣き出したくなっちゃたんだよ。色んなことが申し訳なくて、お袋に謝りたくて、胸が詰まったんだ。ごめん、ごめん、って何度も胸の中で繰り返しているうちに、涙が流れて止まらなかった。
カッコ悪いよな。お袋を後ろに乗せて、ミニトレに跨ったまま、泣いているなんて。でもいいさ。ぼくのこと指差して笑う分には、いっこうに構わない。けれど、お袋のことを笑う奴はタダじゃおかない。これはぼくの大切なお袋だ。立派なお袋だ。誰にも文句なんか言わせない。
そんなふうにしてぼくは、十七歳の夏の終わりに心から泣いてしまったんだよ。
posted at 2012/03/14 22:46:08
lastupdate at 2012/03/14 22:46:08
【修正】
2011/08/02
[泣ける話]
210 名前:しやわせもの 投稿日:06/01/13 02:55
二人で部屋でマッタリしていると、ヒマすぎてしりとりが始まった。
「りんご」「ごりら」「らっぱ」「パラソル」「ルビイ」・・・
数十回続き、スピードが次第に落ちてくる。
そして、オレの番のお題が「け」で回ってきた。
オレ「け・・・け・・・」
女 「はやくー、『け』なんて簡単じゃんー」
オレ「け・・・け・・・結婚しよう・・・」
女 「・・・・・うん」
オレ「『ん』がついたからお前の負けだぞー」
女 「負けちゃったけど、すっごくうれしい事あったからいいもん!」
二人で部屋でマッタリしていると、ヒマすぎてしりとりが始まった。
「りんご」「ごりら」「らっぱ」「パラソル」「ルビイ」・・・
数十回続き、スピードが次第に落ちてくる。
そして、オレの番のお題が「け」で回ってきた。
オレ「け・・・け・・・」
女 「はやくー、『け』なんて簡単じゃんー」
オレ「け・・・け・・・結婚しよう・・・」
女 「・・・・・うん」
オレ「『ん』がついたからお前の負けだぞー」
女 「負けちゃったけど、すっごくうれしい事あったからいいもん!」
posted at 2012/03/14 22:46:40
lastupdate at 2012/03/14 22:46:40
【修正】
[泣ける話]
そうだ・・・1つお詫びしなきゃいけない事があります。。。
「同じ病気をした先輩として何かコメントを・・・」とおっしゃって頂きましたが、私は先輩とかそんな立場の人間なんかじゃないですし、病気を経験したからこそ、他の方に安易に励ましのコメントを書くことが出来ませんでした。
それは、私自身がまだ完治を迎えていないのと、自分の中でクリア出来ていない思いがあり、うまく言葉がみつからないからです。私って、ホントに何の力にもなれなくて・・・・・本当にごめんなさい。
ただ、もしお伝えして頂けるなら、
「私は、長い入院生活でしんどくなってきた時、退院したら何がしたいか。何を食べたいか。やりたい事をたくさん思い浮かべました。
そして、治療でしんどい時ほど、その楽しみを思って頑張りました♪あと、長い入院生活でしんどくなってきた時は、お笑いのDVDを見て思いっきり笑っていました!!
笑っていると、不安や恐怖をその瞬間だけでも忘れることが出来たからです。参考になったなら幸いです。」 と。
「同じ病気をした先輩として何かコメントを・・・」とおっしゃって頂きましたが、私は先輩とかそんな立場の人間なんかじゃないですし、病気を経験したからこそ、他の方に安易に励ましのコメントを書くことが出来ませんでした。
それは、私自身がまだ完治を迎えていないのと、自分の中でクリア出来ていない思いがあり、うまく言葉がみつからないからです。私って、ホントに何の力にもなれなくて・・・・・本当にごめんなさい。
ただ、もしお伝えして頂けるなら、
「私は、長い入院生活でしんどくなってきた時、退院したら何がしたいか。何を食べたいか。やりたい事をたくさん思い浮かべました。
そして、治療でしんどい時ほど、その楽しみを思って頑張りました♪あと、長い入院生活でしんどくなってきた時は、お笑いのDVDを見て思いっきり笑っていました!!
笑っていると、不安や恐怖をその瞬間だけでも忘れることが出来たからです。参考になったなら幸いです。」 と。
posted at 2012/03/14 18:50:34
lastupdate at 2012/03/14 23:00:15
【修正】
2011/07/30
[泣ける話]
お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、
お母さんのことを思うと泣けて来ます。
母チャン、母チャンが 私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、
何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできずに
死んでゆくのがつらいです。
母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、
とうとうここまで来てしまいました。
私として希望通りで嬉しいと思いたいのですが、
母チャンのいわれるようにした方がよかったかなあと思います。
でも私は技倆抜群として選ばれたのですから喜んでください。
私ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとうは出来ないのです。
ともすれば、母チャンの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけれ
ど、これはいけない事なのです。
洗礼を受けた時、アメリカの弾にあたって死ぬより前に
汝を救うものの御手によりて殺すのだと言われましたが、
これを私は思い出しております。
すべてが神様の御手にあるのです。
神様の下にある私たちにはこの世の生死は問題になりませんね。
私はこの頃毎日聖書をよんでいます
お母さんの近くにいる気持ちがするからです。
私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます
お母さんに祈ってつっこみます。
出撃前日
posted at 2012/03/14 18:22:16
lastupdate at 2012/03/14 18:22:16
【修正】
2011/07/08
[泣ける話]
母の愛のこと 投稿者: バカ息子 投稿日:11月23日
もう二十年位前の話です
私は小さい頃親に離婚されて、どっちの親も私を引き取ろうとせず
施設に預けられ、育てられました
そして三歳くらいの時に今の親にもらわれたそうです
当時の私はその自覚などしておらず、
記憶は無く、その親を本当の親と思って中学二年まで過ごしてきました
そして、突然の父との別れが訪れました
脳梗塞で帰らぬ人になりました
そして、その最悪の時に
私とその親は家族ではないということを親戚の方から偶然にも知ってしまったのです
葬儀のあと、私は母を問い詰め、本当の事を聞きました
その時を境に、私は母を嫌いになりました
死んだ父でさえも嫌いになりました
多分、裏切られたとか思ったんでしょう
元々家が裕福ではありませんでした
ですから父が死んでしまったので、母が働きに出ざるを得ませんでした
母は、朝は近くの市場で、昼から夜にかけてはスーパーで働きました
それもこれも全て、私のためのものでした
ですが当時の私にはそれすらもうっとうしく思えてなりませんでした
時には、登校の時間と母が市場から帰ってくる時間がちょうど重なってしまい
友達と登校していた私は、ボロボロになった母と家族であるということを
友達に知られたくなく 「いってらっしゃい」と言う母を無視しては
友達に「誰あれ、気持ち悪いんだけど」という悪口すら言っていたものでした
それを察してか、次の日にはわざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていきました
でも、それでも、母は何一つ文句をいわず働いてくれていました
そんな日が一ヶ月くらい続いたと記憶しています
そんな雨の日、雨合羽を着て市場から帰ってくる母とすれ違いました
当然無言です
その姿はなんとも淋しく、哀しく、辛そうに見えたのです
涙が溢れました。ぐしゃぐしゃに泣きました
私は一体何をしているのか
ボロボロになってまで私を育ててくれているあの人に、
私は何をうっとうしく思っているのかと、凄まじい後悔が私を襲いました
私は友達の目も気にせず、母に駆け寄りました
でも、何を言っていいかわかりませんでした
その時、ふと口をついた言葉が「いってきます」でした
言えた言葉はたったそれだけでした
でも、母は一瞬驚き、そして泣きました
そして、何度も何度も「いってらっしゃい」と言ってくれました
私が友達の元へ戻ったあとも、母は私を見ながら手を振って
「いってらっしゃい」と言ってくれていました
今では、彼女こそが本当の私の母親です
たとえ戸籍上はどうあれ、そう思っています
恩は返しきれないくらいあります
母は「それが親の勤めだよ」と言いますが、でも、じゃあ今度は子として
親の面倒を見ていきたいです
この人が母親で、最高に良かったと思います
もう二十年位前の話です
私は小さい頃親に離婚されて、どっちの親も私を引き取ろうとせず
施設に預けられ、育てられました
そして三歳くらいの時に今の親にもらわれたそうです
当時の私はその自覚などしておらず、
記憶は無く、その親を本当の親と思って中学二年まで過ごしてきました
そして、突然の父との別れが訪れました
脳梗塞で帰らぬ人になりました
そして、その最悪の時に
私とその親は家族ではないということを親戚の方から偶然にも知ってしまったのです
葬儀のあと、私は母を問い詰め、本当の事を聞きました
その時を境に、私は母を嫌いになりました
死んだ父でさえも嫌いになりました
多分、裏切られたとか思ったんでしょう
元々家が裕福ではありませんでした
ですから父が死んでしまったので、母が働きに出ざるを得ませんでした
母は、朝は近くの市場で、昼から夜にかけてはスーパーで働きました
それもこれも全て、私のためのものでした
ですが当時の私にはそれすらもうっとうしく思えてなりませんでした
時には、登校の時間と母が市場から帰ってくる時間がちょうど重なってしまい
友達と登校していた私は、ボロボロになった母と家族であるということを
友達に知られたくなく 「いってらっしゃい」と言う母を無視しては
友達に「誰あれ、気持ち悪いんだけど」という悪口すら言っていたものでした
それを察してか、次の日にはわざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていきました
でも、それでも、母は何一つ文句をいわず働いてくれていました
そんな日が一ヶ月くらい続いたと記憶しています
そんな雨の日、雨合羽を着て市場から帰ってくる母とすれ違いました
当然無言です
その姿はなんとも淋しく、哀しく、辛そうに見えたのです
涙が溢れました。ぐしゃぐしゃに泣きました
私は一体何をしているのか
ボロボロになってまで私を育ててくれているあの人に、
私は何をうっとうしく思っているのかと、凄まじい後悔が私を襲いました
私は友達の目も気にせず、母に駆け寄りました
でも、何を言っていいかわかりませんでした
その時、ふと口をついた言葉が「いってきます」でした
言えた言葉はたったそれだけでした
でも、母は一瞬驚き、そして泣きました
そして、何度も何度も「いってらっしゃい」と言ってくれました
私が友達の元へ戻ったあとも、母は私を見ながら手を振って
「いってらっしゃい」と言ってくれていました
今では、彼女こそが本当の私の母親です
たとえ戸籍上はどうあれ、そう思っています
恩は返しきれないくらいあります
母は「それが親の勤めだよ」と言いますが、でも、じゃあ今度は子として
親の面倒を見ていきたいです
この人が母親で、最高に良かったと思います
posted at 2012/03/14 21:56:07
lastupdate at 2012/03/14 23:06:04
【修正】
2011/07/07
[泣ける話]
25 :病弱名無しさん :02/09/04 20:25 ID:BAYtiWaJ
感動とか言うよりも、未だに思い出す度に
後悔の気持ちでいっぱいになって自分自身が泣けてくる話を一つ…。
多分と〜っても長いです。
長文苦手な方は読み飛ばしてくださいね。
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。
小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
--------------------------------------------------------------------------
やばい、また涙が出てきた。
でも、今の自分を客観的に見るためにも頑張って続きを書きます。
あと1〜2レス続きます。
26 :病弱名無しさん :02/09/04 20:32 ID:BAYtiWaJ
気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。
私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
(〜まだ続きます)
27 :病弱名無しさん :02/09/04 20:40 ID:BAYtiWaJ
継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
(終わり)
感動とか言うよりも、未だに思い出す度に
後悔の気持ちでいっぱいになって自分自身が泣けてくる話を一つ…。
多分と〜っても長いです。
長文苦手な方は読み飛ばしてくださいね。
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。
小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
--------------------------------------------------------------------------
やばい、また涙が出てきた。
でも、今の自分を客観的に見るためにも頑張って続きを書きます。
あと1〜2レス続きます。
26 :病弱名無しさん :02/09/04 20:32 ID:BAYtiWaJ
気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。
私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
(〜まだ続きます)
27 :病弱名無しさん :02/09/04 20:40 ID:BAYtiWaJ
継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
(終わり)
posted at 2012/03/14 8:44:04
lastupdate at 2012/03/14 23:12:56
【修正】
2011/07/06
[泣ける話]
275 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:31 ID:AcfeALCB
まだ1年ほど前の事なのですが・・・。
彼女がこの世を去りました。病死です。
その彼女と出会ったのは7年程前でした。
相手はその頃大学1年生でした。
持病があり、あと5年生きられるかどうか?と寂しく笑っていました。
それを承知で私たちはつきあい始めました。
つきあい始めたのは良いのですが、私の仕事の関係で
遠距離(関西−東北)になってしまいました。
それでも、彼女は笑いながら逢えるついでに旅行も出来ると言い、
月に1度のペースで会いに来てくれました。
相手は実家に住んでいて、私は貧乏サラリーマン。それを察して、相手
が私の所に会いに来てくれていたのです。
最初の3年は、その様な感じで普段は寂しいながらも、お互い幸せに
過ごすことが出来ました。
そして相手は卒業。しかしこの就職難の折り、東北から関西に就職す
るのは無理でした。そこで彼女は地元で就職し、お金を貯めて関西に来
ると言いました。私も彼女を迎えるため、必死で貯金を始めました。
相手が就職して1年が過ぎたころ、相手の遊びに来る頻度が、それま
で毎月だったのが、だんだん2ヶ月3ヶ月と間延びし始めました。
毎晩電話で話をしていましたが、丁度1年半ごろ前から、たまに彼女
が電話に出ないことがありました。そのころから、ふと私に嫌な予感が
わき起こっていました。
私は両親がいません。物心ついた時には、父親は蒸発。そして私が高
校の時に母親が病死しました。そのため、彼女の両親には嫌われていま
した。彼女はそれなりに良いところのお嬢様だったので、どこの馬の骨
とも分からない私は、最初から相手にされていませんでした。
ある日、そんな彼女の父親から私の元に電話がありました。
彼女の持病が重くなり、来週から入院することになる。だからもう電
話はかけてくるな、もうほっておいてくれとだけ言われ、一方的に電話
を切られました。
276 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:32 ID:AcfeALCB
私は来るべき時が来たと思い、しばらく悩みましたが、思い切って上
司に掛け合ってみました。東北に転勤させてくれと。答えはNOでした。
しばらく会社と話し合いをしましたが、結局私は会社を退職し、故郷に
戻りました。荷物も売れる物は売り、出来る限り身軽にして彼女が入院
した病院の近くに、小さな部屋を借りました。離職票が出る前に契約し
たので、なんとか部屋を借りることが出来ました。
そして、彼女に会いに行きました。
彼女はかなり驚いていました。そしてひたすら「ごめんなさい」と謝っ
ていました。私は会社をリストラされたから故郷に戻ってきたと言い、
新しい勤め先も近くだから、仕事が終わったら会いに来るよ、とだけ伝
えました。
昼間は彼女の母親が居るので、私は病室に入れてもらえませんでした。
そして週末には父親も面会に来るので、もちろん病室に近寄ることも許
してもらえませんでした。ですので昼間や週末はコンビニでバイトして、
平日の夕方彼女の母親や父親が帰った後、残された僅かな面会時間に会
いに行くという日々を送っていました。
そうする間にも、彼女は目に見えて衰弱して行きました。
柔らかかった手は骨が浮き出て、頬はこけ、足はすっかり衰えてしま
い、ベッドから起きあがるのも難しいくらいでした。
彼女は私が会いに行くとよく泣いていました。元気じゃなくてごめん
なさい。ちゃんと両親に認めてもらえなくて、ごめんなさいと。私は、
そんな事気にしたことはありませんでした。
ほとんど食欲がなく、もっ ぱら点滴と、管で栄養をとる彼女でしたが、
時々大好物のリンゴを持って行き、すり下ろして絞って作ったリンゴジ
ュースをなめさせたりしました。
そのときに見せる笑顔で私は十分幸せでした。
私に出来ることは、そうやって彼女を元気づけることだけでした。
短い面会時間だったので、あまり話も出来ず、ただ彼女の手を握り、
帰り際にキスするくらいしか出来ませんでしたが、私は十分幸せでした。
277 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:33 ID:AcfeALCB
去年の3月の末くらいだったと思いますが、いつもの様に彼女に会い
に行きましたが、彼女は眠っていました。病室に響く規則正しい電子音
に私も睡魔を感じ、つい1時間程眠り込んでしまいました。
目が覚めるととっくに面会時間は過ぎており、あわてて病室を後にしました。
すると、エレベータの前のベンチに誰かが座っていました。別に気に
せずエレベータのボタンを押そうとした私に、その人が話しかけてきました。
「話がある。」
その人は彼女の父親でした。
「何でしょうか?」
「君はどうしてここにいる?」
「あの娘のお見舞いに来ているのです。」
「そんな事を聞いているのではない。」
「と言いますと?」
「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして帰ってきたんだ?」
「ご存じでしたか。」
「どうしてそこまで出来るんだ?」
「どうして?好きな相手の側にいるのに、何か理由が必要ですか?」
「・・・・。」
「私の事を認めてくれとは言いません。ですから、せめてご迷惑をお
かけしない様にと・・・。」
「分かった。今度からは私たちに気兼ねすることなく、あの子に顔を
見せてやってくれ。」
「え?」
「それではこれで失礼する。」
たしかこんな会話だったと思います。
それからは毎日彼女に会えるようになりました。彼女の母親も面会時
間の終わる1時間前に病院を出て、私が彼女と会える時間には席をはず
してくれるようになりました。
彼女の話によると、父親が母親にそうするように言ったそうです。
そ して、私とのことは彼女の好きにするようにとも言ったそうです。
278 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:34 ID:AcfeALCB
でも、それから1週間ほどのことでした。
夜自分の部屋で寝ていると、彼女の父親から電話がかかってきました。
低く落ち着いた声で、今から会いに来てやってくれ、そのかわり覚悟
して来てくれと、彼女の父親ははっきりとした口調でそう言いました。
私は、大急ぎで彼女の病室に行きました。
看護婦や医師に囲まれたベッドの中で、うつろな目をした彼女が居ま
した。薬の影響ですっかり髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、青白い手を医
師が掴み、脈を取っている様子でした。
夕方彼女と会った時、確かに衰弱は進んでいましたが、それでも話が
できる程度の元気があったはずでした。その変わり果てた彼女の様子に、
私は身動きも出来ませんでした。
一歩下がった所で、目を真っ赤に腫らして立っている彼女の両親が居
ました。私を見た彼女の父親は、黙って母親を促しました。彼女の母親
は私の手を取ると、この子の手を握ってあげて、と言いながら、彼女の
やせ細った手を取り私に握らせました。
そのとき、うつろだった彼女の目に一瞬光が見えた気がしました。
そして、彼女はゆっくり口を動かしました。ほんの僅かでしたが、はっ
きり動かしていました。私は急いで彼女の口元に耳をあてがいました。
微かでしたが、彼女は、ごめんなさい、と繰り返して言っていました。
私は涙が止まらず、そして何もいえず、ただその子の手を握り返し、
その子の言葉を聞き逃すまいと必死で彼女の口に耳を当てていました。
とにかく、頭が真っ白で、どうして良いのか分からず、ただ手を握り
返す事しかできませんでした。
突然私は肩をたたかれ、我に返りました。振り向くと彼女の父親が私
の肩を掴んでいました。そして彼女を真っ赤に腫れた目で見つめていま
した。私はその手を取り、彼女の手を握らせようとしましたが、彼女の
父親は首を横に振り、君が握ってやってくれ、私はここで良い、と言い
ました。
それからどれくらいの時間がたったのか、私には分かりません。しか
し、それまで僅かにごめんなさいとつぶやき続けていた彼女が、一言、
別の言葉をつぶやきました。
「○○ちゃん(私の名前)ありがとね。すごくしあわせだったよ。」
確かにそう私には聞こえました。
それが彼女の最後の言葉でした。
私はあわてて彼女の両親の手を取り、彼女の手を握らせました。気丈
だったご両親でしたが、彼女の手を握った途端、涙を流しました。
それからどのくらいの時間がたったのか分かりませんでしたが、突然
それまで不規則に響いていた電子音が、連続音に変わりました。
医師が彼女の目に懐中電灯を当て、ゆっくり、ご臨終です、と言いました。
その言葉を聞いて、彼女の母親が声を上げて泣き始めました。
気がつくと私も、そして彼女の父親も声を上げて泣いていました。握りし
めていた彼女の手が、ゆっくり確実に冷たくなっていくのを感じました。
279 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:35 ID:AcfeALCB
次の日、彼女の父親から喪服を渡されました。そして、二通の手紙を
手渡され、今夜は君もあの子のそばにいてやってくれと言われました。
私はひとまず部屋に戻りました。部屋に入った私はしばらく力無く部
屋に座り込んでいました。ふと手に握らされた手紙を思い出し、二通の
手紙を見ました。
一通は彼女の父親からでした。中を見ると一枚の便せ
んにしっかりとした字で、すまなかった、そしてありがとう、その二言
が書いてありました。もう一通は彼女の字で、私に当てた手紙でした。
中には、私と出会った頃から彼女が入院するまでの事が、びっしり書き
込まれていました。そしてその内容一つ一つに、自分がどれだけ幸せだっ
たか、どれだけ救われたかが書かれていました。その手紙を読みながら、
私はまた声を上げて泣きました。その手紙の最後には、こう書かれてい
ました。
私が居なくなっても、○○ちゃんは元気でいてね。私のすごくすごく
大切な人だから、沢山幸せになってね。新しい彼女見つけなきゃだめだ
よ。私のこと好きなら、○○ちゃん、絶対に幸せになってね。約束。
私はシャワーを浴びながら、声を上げて泣きました。いつまでもシャ
ワーを浴びながら泣き続けていました。
シャワーを出た私は、彼女の父親から受け取った喪服を着ました。
なぜか私にぴったりのサイズでした。
まだ涙は乾いていませんでしたが、喪服に着替えた私は、彼女の家に
行きました。彼女の家には少しずつ親類や知り合いの方々が集まって来
ている様でした。私は彼女の両親に連れられ、彼女の安置されている部
屋に通され、彼女のすぐ側に席をあてがっていただけました。
彼女の両親は、親類縁者の方々に私を彼女と付き合っていた青年だと
紹介されました。
通夜と葬式にも出席させてもらえました。そして常に私があてがって
もらえた席は、彼女に一番近い席でした。彼女の両親よりも近い席でし
た。私はその席を辞退しようとしましたが、彼女の父親に諫められまし
た。君がその席に座らなくてどうする。私たちに気遣うならその席に座っ
てくれと。
今は彼女の父親に紹介された会社で働いています。いったんは断りま
したが、彼女の父親と直接関係のある会社ではない事、そして仕事が気
に入らなければ自由に辞めて良いと説得され、その好意を受けることに
しました。
彼女の思い出はまだ鮮明に心に残っています。
長々と失礼しました。
まだ1年ほど前の事なのですが・・・。
彼女がこの世を去りました。病死です。
その彼女と出会ったのは7年程前でした。
相手はその頃大学1年生でした。
持病があり、あと5年生きられるかどうか?と寂しく笑っていました。
それを承知で私たちはつきあい始めました。
つきあい始めたのは良いのですが、私の仕事の関係で
遠距離(関西−東北)になってしまいました。
それでも、彼女は笑いながら逢えるついでに旅行も出来ると言い、
月に1度のペースで会いに来てくれました。
相手は実家に住んでいて、私は貧乏サラリーマン。それを察して、相手
が私の所に会いに来てくれていたのです。
最初の3年は、その様な感じで普段は寂しいながらも、お互い幸せに
過ごすことが出来ました。
そして相手は卒業。しかしこの就職難の折り、東北から関西に就職す
るのは無理でした。そこで彼女は地元で就職し、お金を貯めて関西に来
ると言いました。私も彼女を迎えるため、必死で貯金を始めました。
相手が就職して1年が過ぎたころ、相手の遊びに来る頻度が、それま
で毎月だったのが、だんだん2ヶ月3ヶ月と間延びし始めました。
毎晩電話で話をしていましたが、丁度1年半ごろ前から、たまに彼女
が電話に出ないことがありました。そのころから、ふと私に嫌な予感が
わき起こっていました。
私は両親がいません。物心ついた時には、父親は蒸発。そして私が高
校の時に母親が病死しました。そのため、彼女の両親には嫌われていま
した。彼女はそれなりに良いところのお嬢様だったので、どこの馬の骨
とも分からない私は、最初から相手にされていませんでした。
ある日、そんな彼女の父親から私の元に電話がありました。
彼女の持病が重くなり、来週から入院することになる。だからもう電
話はかけてくるな、もうほっておいてくれとだけ言われ、一方的に電話
を切られました。
276 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:32 ID:AcfeALCB
私は来るべき時が来たと思い、しばらく悩みましたが、思い切って上
司に掛け合ってみました。東北に転勤させてくれと。答えはNOでした。
しばらく会社と話し合いをしましたが、結局私は会社を退職し、故郷に
戻りました。荷物も売れる物は売り、出来る限り身軽にして彼女が入院
した病院の近くに、小さな部屋を借りました。離職票が出る前に契約し
たので、なんとか部屋を借りることが出来ました。
そして、彼女に会いに行きました。
彼女はかなり驚いていました。そしてひたすら「ごめんなさい」と謝っ
ていました。私は会社をリストラされたから故郷に戻ってきたと言い、
新しい勤め先も近くだから、仕事が終わったら会いに来るよ、とだけ伝
えました。
昼間は彼女の母親が居るので、私は病室に入れてもらえませんでした。
そして週末には父親も面会に来るので、もちろん病室に近寄ることも許
してもらえませんでした。ですので昼間や週末はコンビニでバイトして、
平日の夕方彼女の母親や父親が帰った後、残された僅かな面会時間に会
いに行くという日々を送っていました。
そうする間にも、彼女は目に見えて衰弱して行きました。
柔らかかった手は骨が浮き出て、頬はこけ、足はすっかり衰えてしま
い、ベッドから起きあがるのも難しいくらいでした。
彼女は私が会いに行くとよく泣いていました。元気じゃなくてごめん
なさい。ちゃんと両親に認めてもらえなくて、ごめんなさいと。私は、
そんな事気にしたことはありませんでした。
ほとんど食欲がなく、もっ ぱら点滴と、管で栄養をとる彼女でしたが、
時々大好物のリンゴを持って行き、すり下ろして絞って作ったリンゴジ
ュースをなめさせたりしました。
そのときに見せる笑顔で私は十分幸せでした。
私に出来ることは、そうやって彼女を元気づけることだけでした。
短い面会時間だったので、あまり話も出来ず、ただ彼女の手を握り、
帰り際にキスするくらいしか出来ませんでしたが、私は十分幸せでした。
277 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:33 ID:AcfeALCB
去年の3月の末くらいだったと思いますが、いつもの様に彼女に会い
に行きましたが、彼女は眠っていました。病室に響く規則正しい電子音
に私も睡魔を感じ、つい1時間程眠り込んでしまいました。
目が覚めるととっくに面会時間は過ぎており、あわてて病室を後にしました。
すると、エレベータの前のベンチに誰かが座っていました。別に気に
せずエレベータのボタンを押そうとした私に、その人が話しかけてきました。
「話がある。」
その人は彼女の父親でした。
「何でしょうか?」
「君はどうしてここにいる?」
「あの娘のお見舞いに来ているのです。」
「そんな事を聞いているのではない。」
「と言いますと?」
「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして帰ってきたんだ?」
「ご存じでしたか。」
「どうしてそこまで出来るんだ?」
「どうして?好きな相手の側にいるのに、何か理由が必要ですか?」
「・・・・。」
「私の事を認めてくれとは言いません。ですから、せめてご迷惑をお
かけしない様にと・・・。」
「分かった。今度からは私たちに気兼ねすることなく、あの子に顔を
見せてやってくれ。」
「え?」
「それではこれで失礼する。」
たしかこんな会話だったと思います。
それからは毎日彼女に会えるようになりました。彼女の母親も面会時
間の終わる1時間前に病院を出て、私が彼女と会える時間には席をはず
してくれるようになりました。
彼女の話によると、父親が母親にそうするように言ったそうです。
そ して、私とのことは彼女の好きにするようにとも言ったそうです。
278 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:34 ID:AcfeALCB
でも、それから1週間ほどのことでした。
夜自分の部屋で寝ていると、彼女の父親から電話がかかってきました。
低く落ち着いた声で、今から会いに来てやってくれ、そのかわり覚悟
して来てくれと、彼女の父親ははっきりとした口調でそう言いました。
私は、大急ぎで彼女の病室に行きました。
看護婦や医師に囲まれたベッドの中で、うつろな目をした彼女が居ま
した。薬の影響ですっかり髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、青白い手を医
師が掴み、脈を取っている様子でした。
夕方彼女と会った時、確かに衰弱は進んでいましたが、それでも話が
できる程度の元気があったはずでした。その変わり果てた彼女の様子に、
私は身動きも出来ませんでした。
一歩下がった所で、目を真っ赤に腫らして立っている彼女の両親が居
ました。私を見た彼女の父親は、黙って母親を促しました。彼女の母親
は私の手を取ると、この子の手を握ってあげて、と言いながら、彼女の
やせ細った手を取り私に握らせました。
そのとき、うつろだった彼女の目に一瞬光が見えた気がしました。
そして、彼女はゆっくり口を動かしました。ほんの僅かでしたが、はっ
きり動かしていました。私は急いで彼女の口元に耳をあてがいました。
微かでしたが、彼女は、ごめんなさい、と繰り返して言っていました。
私は涙が止まらず、そして何もいえず、ただその子の手を握り返し、
その子の言葉を聞き逃すまいと必死で彼女の口に耳を当てていました。
とにかく、頭が真っ白で、どうして良いのか分からず、ただ手を握り
返す事しかできませんでした。
突然私は肩をたたかれ、我に返りました。振り向くと彼女の父親が私
の肩を掴んでいました。そして彼女を真っ赤に腫れた目で見つめていま
した。私はその手を取り、彼女の手を握らせようとしましたが、彼女の
父親は首を横に振り、君が握ってやってくれ、私はここで良い、と言い
ました。
それからどれくらいの時間がたったのか、私には分かりません。しか
し、それまで僅かにごめんなさいとつぶやき続けていた彼女が、一言、
別の言葉をつぶやきました。
「○○ちゃん(私の名前)ありがとね。すごくしあわせだったよ。」
確かにそう私には聞こえました。
それが彼女の最後の言葉でした。
私はあわてて彼女の両親の手を取り、彼女の手を握らせました。気丈
だったご両親でしたが、彼女の手を握った途端、涙を流しました。
それからどのくらいの時間がたったのか分かりませんでしたが、突然
それまで不規則に響いていた電子音が、連続音に変わりました。
医師が彼女の目に懐中電灯を当て、ゆっくり、ご臨終です、と言いました。
その言葉を聞いて、彼女の母親が声を上げて泣き始めました。
気がつくと私も、そして彼女の父親も声を上げて泣いていました。握りし
めていた彼女の手が、ゆっくり確実に冷たくなっていくのを感じました。
279 名前: のら猫 投稿日: 02/04/30 06:35 ID:AcfeALCB
次の日、彼女の父親から喪服を渡されました。そして、二通の手紙を
手渡され、今夜は君もあの子のそばにいてやってくれと言われました。
私はひとまず部屋に戻りました。部屋に入った私はしばらく力無く部
屋に座り込んでいました。ふと手に握らされた手紙を思い出し、二通の
手紙を見ました。
一通は彼女の父親からでした。中を見ると一枚の便せ
んにしっかりとした字で、すまなかった、そしてありがとう、その二言
が書いてありました。もう一通は彼女の字で、私に当てた手紙でした。
中には、私と出会った頃から彼女が入院するまでの事が、びっしり書き
込まれていました。そしてその内容一つ一つに、自分がどれだけ幸せだっ
たか、どれだけ救われたかが書かれていました。その手紙を読みながら、
私はまた声を上げて泣きました。その手紙の最後には、こう書かれてい
ました。
私が居なくなっても、○○ちゃんは元気でいてね。私のすごくすごく
大切な人だから、沢山幸せになってね。新しい彼女見つけなきゃだめだ
よ。私のこと好きなら、○○ちゃん、絶対に幸せになってね。約束。
私はシャワーを浴びながら、声を上げて泣きました。いつまでもシャ
ワーを浴びながら泣き続けていました。
シャワーを出た私は、彼女の父親から受け取った喪服を着ました。
なぜか私にぴったりのサイズでした。
まだ涙は乾いていませんでしたが、喪服に着替えた私は、彼女の家に
行きました。彼女の家には少しずつ親類や知り合いの方々が集まって来
ている様でした。私は彼女の両親に連れられ、彼女の安置されている部
屋に通され、彼女のすぐ側に席をあてがっていただけました。
彼女の両親は、親類縁者の方々に私を彼女と付き合っていた青年だと
紹介されました。
通夜と葬式にも出席させてもらえました。そして常に私があてがって
もらえた席は、彼女に一番近い席でした。彼女の両親よりも近い席でし
た。私はその席を辞退しようとしましたが、彼女の父親に諫められまし
た。君がその席に座らなくてどうする。私たちに気遣うならその席に座っ
てくれと。
今は彼女の父親に紹介された会社で働いています。いったんは断りま
したが、彼女の父親と直接関係のある会社ではない事、そして仕事が気
に入らなければ自由に辞めて良いと説得され、その好意を受けることに
しました。
彼女の思い出はまだ鮮明に心に残っています。
長々と失礼しました。
posted at 2012/03/14 22:56:12
lastupdate at 2012/03/14 22:56:12
【修正】
2011/06/27
[泣ける話]
いまだに苦い思い出として残っているのは、小学一年生のときの僕の誕生会。
僕を一番可愛がっていた祖母から「マー坊の一番好きなものをプレゼントするよ」と言われていて、これはすごい物をもらえるぞと期待していた。
そしたら色とりどりのご馳走が並んでいるテーブルの上に、山盛りのおにぎりがあった。でもそのおにぎりは、その場の雰囲気にまったくそぐわないんだな。
<<おばあさんのおにぎりは、さださんの大好物で、お腹がすくと 「おばあちゃん、おにぎり、おにぎり」とせがんでいたのです。
さださんのおばあさんはいつものおにぎりを作って、豪勢な料理の並ぶ中に置きました。
小学一年生の子供が、おばあさんの胸のうちを理解できるわけもなく、彼はおにぎりに手もつけず友達と遊びに出て行ってしまいました。豪勢な料理の皿は平らげられ、手付かずのおにぎりの山だけが残りました。>>
なんとなく子供心にも気にかかりながら家に帰ると、祖母が薄暗い土間の食堂でそのおにぎりを崩しながらお茶漬けにして食べているんですよ。
それを見た途端、「今から食べるけん」とかなんとか言ったんだけど、「そんなに気をつかわんでもいいから」って、祖母は厭味一つ言わなかった。
僕は子供心にも、自分がいかに祖母に酷なことをしたんだろうと思って、泣きながら二つばかりムシャムシャ食った記憶が今も鮮明に残ってるんです。
僕を一番可愛がっていた祖母から「マー坊の一番好きなものをプレゼントするよ」と言われていて、これはすごい物をもらえるぞと期待していた。
そしたら色とりどりのご馳走が並んでいるテーブルの上に、山盛りのおにぎりがあった。でもそのおにぎりは、その場の雰囲気にまったくそぐわないんだな。
<<おばあさんのおにぎりは、さださんの大好物で、お腹がすくと 「おばあちゃん、おにぎり、おにぎり」とせがんでいたのです。
さださんのおばあさんはいつものおにぎりを作って、豪勢な料理の並ぶ中に置きました。
小学一年生の子供が、おばあさんの胸のうちを理解できるわけもなく、彼はおにぎりに手もつけず友達と遊びに出て行ってしまいました。豪勢な料理の皿は平らげられ、手付かずのおにぎりの山だけが残りました。>>
なんとなく子供心にも気にかかりながら家に帰ると、祖母が薄暗い土間の食堂でそのおにぎりを崩しながらお茶漬けにして食べているんですよ。
それを見た途端、「今から食べるけん」とかなんとか言ったんだけど、「そんなに気をつかわんでもいいから」って、祖母は厭味一つ言わなかった。
僕は子供心にも、自分がいかに祖母に酷なことをしたんだろうと思って、泣きながら二つばかりムシャムシャ食った記憶が今も鮮明に残ってるんです。
posted at 2012/03/14 16:21:49
lastupdate at 2012/03/14 23:05:26
【修正】