クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2011/02/23
私には、兄がいました。
3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。
ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。)
勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。
バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。
苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。おもしろかった。
たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。
とても、強かったので、大苦戦してました。

ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。
「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」
私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、
なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。
そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。

葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを棺おけにいれようとしたのを覚えてます。
お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。そして、ドラクエ3。
でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。
だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。

私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。
ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。
そして、なんとなく、強くなったら、ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。
兄は、とっても強くなりました。とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。
それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。
その時、初めて私は、泣きました。 ずっとずっと、母の近くで泣きました。
お兄ちゃんが死んじゃった。やっと、実感できました。

今では、前へ進むきっかけをくれた、冒険の書が消えたことを、感謝しています。
posted at 2012/03/23 23:42:12
lastupdate at 2012/03/23 23:42:12
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11 :名前8じゃないけどコピペ :投稿日: 01/11/20 11:38

切ない事。
結婚を半年後に控え、生理不順を治しに病院へ行ったら、
子宮ガンの疑いありと診断された。現在結果待ち。
ネットで検索したら、自覚症状の項目に当てはまってる。

彼氏は今から国家試験の勉強の負い込み。
来年3月の国家試験まで絶対に悪い知らせは伝えたくない。

まだ結果出てないけど、本当にそうだった場合、
手術しようが死のうが、絶対に隠し通す為に策を労し中。
万が一の場合、親に口止めして、葬式にもこさせないつもり。
もし、本当にガンで、子宮(というか卵巣だけど)を除去
するなら、彼氏との結婚は諦める。
彼は子供好きの子供欲しい人だから、私は彼の子供産めないから。
親の前では絶対泣かないし、彼氏にも動揺を悟られないように
してるけど、本当は辛い。

唯一の救いは遠距離恋愛なこと。
もし手術するなら、盲腸って言ってごまかすつもり。
お見舞いにこれないだろうし、電話で元気にしてればバレない
かなって思ってる。
ネタのようなマジな話。
12 名前:8じゃないけどコピペ 投稿日: 01/11/20 11:39 ID:U0OfIdgS
15の頃からの悪友で、ムチャ悪い奴がいるんだ。
シャープな顔なんだけどキツネ目でヤンキーを絵に書いた様な顔。

そいつも俺も大人になって、奴も結婚して去年子供が出来た。
その子が産れた時、肝臓が一つなかったんだ。

彼はホントに弱さを見せない奴だったんだが、
嫁の居ない所で大泣きしたんだよ。
娘が死んだ訳でもないのに、娘の身体の事を思って、大泣きしてたんだ。
でも嫁には「全然大丈夫だろ、肝臓くらい、俺の娘だぜ」って言ってた。

彼だからなのか、俺は胸が痛かった。
彼が泣いてるのを見たのは12年間で始めて見たよ。

恋愛とは関係ないが今までで一番切なかったよ


13 名前:8じゃないけどコピペ投稿日: 01/11/20 11:39 ID:U0OfIdgS
2年以上ずっと好きな人ができなくて、また独りの秋を向かえてる今日この頃、
親しい女友達が思い詰めた声で聞いてもらいたいことがあると電話して来た。
内心どきどきしながら行ったら「好きな人ができて悩んでる」との相談…。
最近無性に寂しさを感じていて仕方無かった俺にはきつかった…。しかも、俺
の話になったら「寂しいときは私を使って」なんて言ってくれる。その優しさ
が痛い。久しぶりに意識できそうになってた子だっただけに、身に浸みる。
「お互い頑張ろうね」なんて励ましあってる俺自身にさらに幻滅。


14 名前:8じゃないけどコピペ投稿日: 01/11/20 11:39 ID:U0OfIdgS
俺と彼女は今から3年前付き合っていて 付き合いが始まって1年
もう結婚しようかって話も出て 今思ってもかなりラブラブ状態だった。

だけどちょうどその頃俺は大事故を起こして(車対バイクの事故で俺がバイク)
入院した、、、というより生死を彷徨ってた感じで・・・
その時はもちろん意識がなかったので分からなかったけど、後から
聞いた話によると彼女はほぼ毎日俺のお見舞いに来てくれてたって聞いた。

だけど俺の怪我の具合も良くなって意識もハッキリして記憶も戻った頃に
なると彼女は滅多に来なくなって、結局退院するまでの最後の3ヶ月は
一回も来なかった。

後からその彼女の友達に聞いた話によると彼女は俺が入院してる間、
メッチャ辛くて俺の友達(男)にいつも泣きついてたらしい・・・
そっから彼女はその俺の友達とそういう関係になって・・・妊娠したらしい・・・
最後の三ヶ月来なかったのは彼女が妊娠したって事で俺に顔向けできなかった
って後から聞かされて、俺はメッチャ泣きまくった・・・
今彼女は俺の友達と結婚して2人目の子供もお腹にいるって。

あれは仕方なかったんだ、その2人を祝福しなきゃいけないって気持ちもあります。
けど、正直今でも彼女の事が死ぬほど好きです。
あの時の事故さえなければって思ったりもしますが・・・


15 名前:8じゃないけどコピペ投稿日: 01/11/20 11:40 ID:U0OfIdgS
結局、出さなかった手紙。

○○へ
2人が別の道を歩き始めてから3年が過ぎましたね。
そのあいだ、僕は君をあの頃と変わらずに想いつづけていました。
でも、もう君を忘れようと思います。
3年というのは、偶然にも付き合った期間と同じです。
心の中で育てた愛を元に戻してしまうには、
育てた時間と同じ長さが必要だということかも知れません。

こんなことがありましたね。
相合傘で信号待ち、アスファルトを激しく叩いて跳ねる雨粒を見た僕が、
「雨がダンスしてる。」すると君は、
「その気持ちを忘れないでね。」
君の言葉があんまり素敵だったので、僕は何も答えられませんでした。

そんな君を完全に忘れることは出来ないかも知れませんが、
君を好きだったことは、もう過去のことにしてしまおうと思います。
君と別れたあとも僕を支えつづけてくれた君の思い出と君という人に
ありがとうを言わせてください。

君への最後の言葉が「ありがとう」だなんて平凡すぎるけど、
それが平凡な僕には良く似合っていると思います。

さようなら。
そして、ありがとう。
posted at 2012/03/14 21:45:07
lastupdate at 2012/03/14 23:03:47
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2011/02/15
私は、比較的やさしい、思いやりのある人間だと自負していた。

長女で、忙しい両親に代わって妹や弟の面倒をみてきたことが習い性となったのか、頼まれごとをされれば、なんでも引き受けてしまうし、少しばかり自分の時間や労力を費やすことになっても、それを惜しむ気持ちにはあまりならない。

だから他人からは、面倒見がいいとか、気配りがあるとか、やさしいとか言われ、そう言われればもちろん悪い気はしないから、自分でも何となくそんな気になっていた。

そんなある日のことである。食事中に私は、友人から意外なことを言われた。共通の友人の窮地を見かねて、私が一肌脱いだ経緯を話し終わった時、彼は小さく溜め息をついて言ったのだ。

「君のやさしさってさ、自己満足的なところがあるよね」

私はカチンときた。「どういうことよ、それ」

「いや、だからさぁ、君は確かに相手のために何かをしてあげているんだろうけど、結局それは、自分の美学をまっとうするためって感じが、ときどきするんだよね。」

彼は言いにくそうに、けれどもきっぱりと私に言ってのける。

私は猛然と反論しはじめた。

「何かしてあげて、それで少しばかりこちらの気分がよくなったら自己満足なの?やさしくしてあげよう、と心掛けていることをしたのに、それは自分の美学を遂行したにすぎないって言葉で片づけるの?それって、あんまりじゃない。もちろん私は神でも仏でも聖人でもないんだから、そりゃあ無垢な心でやってる訳ではないけど、相手のことを思ってやっているのは事実よ」
 
黙ってしまった彼の前で、私はひたすら言葉を続けた。

「百歩譲って偽善でもいいじゃないの。偽善でやさしくできるほうが、何にもしないより少しはましでしょ?能書きばかり言って、あなたみたいに何もしない人っていうのが一番始末が悪いのよ」
 
こちらもついつい興奮して、刃の鋭い言葉を投げつけてしまう。彼は苦笑して私を見た。

「ごめんごめん。べつに君を批判してるわけじゃない。人に何かしてもらいたいってことばかり求めている人が多い中で、君みたいにしてあげることを喜べる人は、偉いと思ってるよ。ただ……。 そこで立ち止まっているのは君らしくないと思ってるだけ。」

話はそこで終わり、気まずいまま私たちは店を出て、ほとんど会話をすることなく駅まで歩き、そしてそのまま別々の電車に乗った。下り電車はまだ混んでいて、私は吊り革にぶら下がりながら、さっきの友人の言葉を思い返した。腹は立つのだが、何となく気になる。残念だが心の奥底が、どこかで彼の言葉を認めているような気もしはじめていた。

posted at 2012/03/14 12:27:22
lastupdate at 2012/03/14 23:04:17
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2011/02/14
198 :名無し物書き@推敲中? :04/05/05 22:20
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。

チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外のベンチで弁当を食べて帰った。

電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せてやることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。
死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。
posted at 2012/03/14 8:34:47
lastupdate at 2012/03/14 8:34:47
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2011/02/04
154 :訴える名無しさん。:2005/05/21(土) 00:08:40 ID:???


学生時代、書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。
本当は泊まる予定だったんだが、次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので
結局日帰りにしてしまった。

母にサインやら捺印やらをしてもらい、帰ろうとして玄関で靴紐を結んで
いると、父が会社から帰ってきた。

口数が少なく、何かにつけて小言や愚痴を言う父親のことが苦手で、
一緒に居ると息苦しさを感じていた私は、父が帰宅する前に帰って
しまいたかった。日帰りできないくらい通えない学校を選んだのも
父から距離をおきたかったからだ。

父が、「お前、泊まるんじゃなかったのか」と訊いたので、
「ちょっと忙しいから」とぶっきらぼうに答えると、手に持っていた
ドーナツの箱を私に差し出し、
「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから」と言った。

駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は
待たされるようだった。
小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。
3個ずつ3種類入っていた。
家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれないよ。
箱の中を覗き込みながら苦笑した。

その直後。
あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうな―。
ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。
様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、
どれもこれも 切なかったり苦かったりばっかりで。

手持ちのポケットティッシュが無くなっても、ハンカチが洗濯して干す前
みたいに濡れても涙は止まらなくて、
結局、一本あとの電車が来るまで駅のベンチでずっと泣き続けていた。
posted at 2012/03/14 22:52:42
lastupdate at 2012/03/14 22:52:42
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2011/02/02
「二週間くらい前から、徐々に気配を感じるようにはなっていたんです。電話の向こうの彼の口調がそれまでより丁寧になってきて、わたしの話を聞いても、面白がったり笑ったりしてくれなくなったんです」

そんなことを話しながら、Kさんはガックリとうなだれました。

恋人同士の関係は、他愛ない話で盛り上がれなくなったら、次の段階に入ったということ。それは一種の倦怠期ともいえるし、転換期ともいえます。

Kさんの彼は、それから二週間後、一方的に別れ話をし、そのまま北海道への長期出張に行ってしまいました。


こんなとき、あなたなら、どうしますか。

あなたが内向的な頑張り屋さんなら、自分の受けたショックを抑えよう、抑えようとします。あなたが外交的な頑張り屋さんなら、彼を問い詰めようとしたり、さらに北海道まで追いかけていくかもしれません。

この二つの行動は間違っているのかと、問われれば「そんなことしたらダメ」とはとても言えません。なにをすべきかハッキリした答えがあるわけない、というのがわたしの本音です。


ただ一つ言えるのは、泣きたい気持ちがあったなら、我慢しないこと。

泣くと言う行為は、人間に与えられた機能の中でも、とても大切なものの一つです。もう泣けないというところまで泣くと、どんなに感情が高ぶっていた人も、ある種の清々(すがすが)しさを味わうことが出来ます。

そして、しばらくして落ち着いたら、悲しい涙だったのか、悔しい涙だったのかが自然にわかります。

それが悲しい涙だったのなら、少し自分を甘やかしてあげましょう。ずっと欲しかったけれど、迷っていた品物、例えばシルクのルームシューズやジノリのティーカップとか、部屋でクヨクヨするときに、なぐさめ物になる上等で優しいものを買いましょう。

悔し涙だった人は、何かで自分を強くできるものを手に入れましょう。今までよりちょっと大人のヘアスタイル。今まで憧れていたけれど、彼の好みではなかったロング丈のタイトスカートなど。


そう。悲しい人は、美しき悲劇のヒロインをとことん味わい、悔しい人は彼の好みに縛られなくてすむ、いい女になってみる・・・。失恋の一つや二つ経験していないと、本命は登場してくれないことになっているのです。


中山庸子「勇気がもてる50の方法」 から
posted at 2012/03/14 21:37:13
lastupdate at 2012/03/14 23:09:23
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2011/01/30

中三の頃、母が死んだ
俺が殺したも同然だった・・・

あの日、俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った

その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕飯も食べずに部屋に篭った
それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたが、父親が部屋に飛び込んできたので目が覚めた

「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の親父の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた
医者は最後に傍にいてあげてくださいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った

その後、母親があの時間に外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のために母はアイスを買いに行って事故にあったとわかった

通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんよ
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている
posted at 2012/03/14 13:08:28
lastupdate at 2012/03/14 23:04:03
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2011/01/23
ちょっと前に、おばあちゃんが死にました。
クモ膜下出血でした。

小学生の頃は両親が共働きで、家にはおばあちゃんしか居ませんでした。
私はおばあちゃんが大好きで大好きで、いつもおばあちゃんの部屋にいました。
学校の家庭科の授業で「小物作り」をしたときも、私は葡萄の剪定をする鋏を入れる袋を作っておばあちゃんにあげました。
肩たたきは毎日していました。
それくらいおばあちゃんが大好きでした。

高校に上がって暫くすると、おばあちゃんに認知症の症状が出てきました。
デイサービスに行くようになって、楽しそうにしているのは良かったのですが。
迎えのバスを、7時くらいからずっと外に出て待っていたりするのです。来るのは9時なのに。
「まだバスは来ないよ」と声をかけても、「草取りをするから…」と言って聞きません。
他にもいろいろなこと。何度言っても聞かないので、段々おばあちゃんがムカついてきました。
あまりおばあちゃんと話す事もなくなりました。
トイレを失敗するような事はありませんが、それえでも介護する母のストレスは物凄かったようです。

大学2年のとき、おばあちゃんはグループホームに入りました。
それから暫くして、おばあちゃんはグループホームで亡くなりました。
私は大学の実習があったので、死に目には会えませんでした。

お葬式も終わって、グループホームの荷物を家族で引き取りに行きました。
服、下着、布団、テレビ。
引き出しを開けると、大きめの茶封筒が入っていました。

中には、私の写真が沢山入っていました。

病院でおばあちゃんにだっこされている写真。
七五三の写真。入園式の写真。入学式の写真、卒業式の写真。
おばあちゃんに送った、鋏入れも入っていました。
それから、私が小学生の頃に描いた、おばあちゃんの絵。
「おばあちゃんだいすき」と書かれた、私の拙い字。

家に帰ってから、母が言いました。
「おばあちゃんにだっこされた孫は、アンタだけだったんよ」
「他にも孫は4人おるけどな、みんなだっこなんかされてなかったよ」
「グループホームの職員さんにもな、アンタの話しかしてなかったみたい」
「『頭の良い自慢の孫』って言っとったらしいよ」

おばあちゃん、ごめんね。
あんなに大好きだったのに、私はそれを忘れていました。

大好きです、おばあちゃん。大好きです。
大好きです。大好きです。
posted at 2012/03/23 23:54:15
lastupdate at 2012/03/23 23:54:15
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ちょっと泣けた夜だったんで書いてみます。

今日は結婚記念日でカミさんと外食した。

レストランはそこそこに混んでいてガヤガヤうるさかった。 特に隣の家族がうるさくって、カミさんとちょっと顔を見合わせて苦笑いをしたぐらいだった。

父親が子供にいろいろ質問しては笑い、っていうのがえんえん続いてこっちもうんざりしてた。 しかも、その父親がやたらと大きく咳き込むので実際鬱陶しかった。

しばらくすると、ウチのカミさんがその家族の父親を見て、「ちょっとあのお父さん見て」と 言うので、見つめるのも失礼なので向いの鏡越しに彼の後姿をみてみた。

咳き込むたびに ハンカチを口に当てていて、それをポケットにしまうのが見えた。ハンカチは血だらけだった。 咳き込んだあとは赤ワインを口に含んで子供たちにばれないよう大声で笑いごまかしていた。

向いに座っていた彼の奥さんは笑っていたが、今にも泣きそうな顔をしていた。 奥さんはどうやら事情を知っているみたいだった。その父親が何らかの重い病気なのは明らかだった。うちのカミさんはちょっともらい涙していた。

帰りに俺は無神経にも「今日はなんか暗い結婚記念日になっちゃったな。台無しだよな」 とカミさんにいった。

カミさんはちょっと沈黙を置いて、
「かっこよかったじゃんあのお父さん。ああいうお父さんになってね」
って涙声で俺に言った。俺もちょっと泣いた。
posted at 2012/03/14 12:19:16
lastupdate at 2012/03/14 12:19:16
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2011/01/14

157 :恋人は名無しさん :05/01/13 14:44:31

2年付き合った彼に振られました。
それはもう、彼が言ったとは思えないほどのひどい言葉で。
どんなにまだ好きだと言っても復縁はかなわず、音信不通になってしまいました。

そんな彼の友達から、彼が亡くなったことを聞き、彼が書いた日記をもらいました。


『入院二日目、昨日は周りのモンがめずらしくて初体験ばっかだったけど、 今日からヒマなんだよな〜。
こうやって日記つけてみたわけだけど、 オレのことだから続かんだろなぁ。N(私のことです)は今頃元気にしてるかなぁ。最後傷つけちゃったけど、 新しい男でも見つけてくれんかなぁ』


最初、私は彼が病気をしていたことも、入院していたことも知らず夢中で日記を読んでいました。日記には彼の私への想いがたくさん書いてありました。


『今日テレビでディズニーランドの特集やってた。
Nと行ったことを思い出した。 あいつ買い物大好きだったから、あの時は疲れていい加減にしろとか思ってた。
でも帰りにこっそり買っといてくれたミッキーはうれしかった。
今枕元にあるわけだけど、友達なんかにからかわれるから皆が来るときだけは隠してる。
別れちゃったしなぁ・・・好きなんだよなぁ』


『夢にNが出てきた。半年会ってないよなぁ。
別にたいした夢じゃないけど喋った。それだけで幸せだなぁ。
なんで目、覚めちゃったんだろ。
今ごろ誰と喋ってんだろ。宇多田の歌みたいだ』


それは日記では無く、私のことばかり書いてありました。


『やっぱりNが好きだぁぁぁ忘れられねぇぇぇぇぇ。
日常の一つ一つにNが出てくるんだよう。
ばかやろぉぉぉぉぉぉ』


158 :恋人は名無しさん :05/01/13 14:45:03
そして、次のページが最後でした。

『オレはもうすぐ死ぬらしい。
医者ははっきりとは言わんけど、わかるモンだなぁ。
思えば治らない病気(病名は伏せ)だって
聞いてからもう1年だ。
結構長く生きた方だし、充分な人生だったんじゃねぇ? って
思おうとしたけどやっぱりダメ。もっと生きたい。
Nともっと一緒にいたかった。
入院してる間、振ったことを、あんなひどい
言葉を言ってしまったことをずっと後悔してきた。
でも、完治なんて可能性が無い。
Nはキレイだし性格いいんだからすぐ次に男ができる。
オレのために人生棒に ふらせるわけにはいかん・・・って
何回も納得したはずなのに。
Nと喋りたい。今から電話したい、会いたい。
まだ死にたくない。
まだフォアグラ食べてないし、USJ行ってない。
大学卒業したかったし、母さんに親孝行もしたかった。
ベタでも父さんと酒飲みたかった。
Nをもっと抱きたい。結婚して子ども欲しかった。
おじいちゃんおばあちゃんになっても
手とつなぐような夫婦になりたかった。Nにあいたい。
でももう叶わない。後悔してばっかりだった。
死ぬときは笑っていきたいけど、
本音は辛すぎる。N、やっぱりまだまだ愛してる。
オレのこと忘れて幸せになれよ』


涙が止まりませんでした。
彼は私のことを常に考えてくれて、でも私は彼の体のことなんてまったく気付かずに自分のことばっかり考えていました。
何で死んじゃったんだろう。私には彼しかいないのに。

友達はこの日記を病院のゴミ箱で見つけたそうです。
私に見つからないようにだと思います。
私のことをここまで想ってくれる人はもういません。
お葬式には行けませんでした。

明日は彼の一周忌です。
最初は自暴自棄な私でしたが、
彼の遺志を尊重するために幸せになろうと思います。
posted at 2012/03/14 13:09:33
lastupdate at 2012/03/14 13:09:33
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