クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/03/27
昨日の朝、女房と喧嘩した。というかひどいことをした。
原因は、夜更かしして寝不足だった俺の寝起き悪さのせいだった。
「仕事行くの嫌だよな」とか呟く俺。そこで女房が何を言っても
俺は切れただろう。前例もあったし。あいつもそれを良く知ってる
から何も言わなかった。それも分かってたけど、なんだか馬鹿に
されてるような気もして、八つ当たりしてしまった。
すごく美味そうだったのに、せっかくあいつが作ってくれた味噌汁
もおかずも全部ぶちまけて暴言を吐いてしまった。
あいつは泣きながら残りの味噌汁の鍋を流しに捨ててた。ものすごく
後悔したけど、用意してあった弁当も持たず、虚勢をはったまま
謝りもしないで俺はそのまま会社に出掛けてしまった。
夜になって、気まずい思いを抱きながら帰宅した。もしかしたら
女房は実家に帰ってるかもしれないと内心不安だった。が、部屋の
灯りはともっている。しかもなにやらいい匂いもする。
思い切ってドアを開けると、女房は俺の好物のビーフシチューの
鍋を抱えて出迎えてくれた。「これで仲直りしよう」と笑顔で。
俺の方こそ、朝のお詫びに気の利いた土産の一つや二つ買って来る
べきだったのに。
もう、自分の勝手で女房に八つ当たりをしないようにしようと
心に誓った。
本当はあの味噌汁食いたかったんだ。俺は。
posted at 2012/03/31 22:52:17
lastupdate at 2012/03/31 22:52:17
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2012/03/25
昨年の夏休みの話

会ったこともない遠い親戚の葬式。親父が出席するはずだったんだけど、どうしてもいけなかったので俺が代わりに出席することになった。
新幹線乗って田舎町へ。

周りも見たことない人しかいないので、重い空気に沈鬱していた。
葬式が終わり退出しようとしたとき、出口で見知らぬ婆さんに突然腕をつかまれた。
けれども、つかんだきり何も話さず目を丸くしているだけ。
かなりの高齢だったのでぼけているのかと思い、何でしょうかと質問すると、○○さん?○○さん?としかいわない。やはりぼけているのだろうかと思い、周りをみても誰も知り合いがいる様子にない。
この人も俺と同じく遠縁のひとらしかった。

婆さんは俺を見ながら「あんれえ帰ってきて下さったん、まっとっ…」と黙り込んでまたしばらく動かない。
すると今度は婆さんに食事に連れて行かれた。お腹も空いていたので一緒に食事をすることに。
食事中、婆さんは昔話ばかりしていた。食事の後も俺はあちこちに連れまわされた。
この建物はいつ作られただとか、あの建物はなくなったのとかそういう話ばかり。
俺は特に語らず、聞き手になっていた。

帰りの新幹線の時間もあるので、婆さんにそのこといって別れようとすると引止めにかかられた。
もういってしまうのか、今度は直ぐに帰ってくるのかと聞き取りにくい方言で何度も俺に聞いてくる。
めんどくさかったので、また直ぐに会えますよと返事をしつつ別れることになった。
婆さんは駅まで一緒に行くといい、途中何度も行かないでくれといわれ、引きとめられた。
結局、新幹線には乗り遅れた。散々な目にあったと思い帰宅。

数日後、また親戚の葬式の連絡。今度は親父がこの間よりも近い親戚なので俺にも来いという。
バイト仲間にまた葬式かと冷やかされて葬式にいった。

そうしたらなくなった人はあの御婆さんだった。
驚きつつも、そうか、亡くなったのかぐらいにか思っていなかった。
葬式の喪主は婆さんの弟がおこなっていて、どうやら婆さんはずっと独身らしかった。

式後改めて喪主の人に会いにいくと、婆さんの弟は俺をみて驚愕し、また○○さんと間違えられた。

亡くなった婆さんにもそういわれたことを教えると、いつ会ったのだときかれ、まえの葬式で会い、食事やら散歩したことを話した。そうしたら弟の爺さんが泣き出して、少し待っていろという。
しばらくして爺さんが写真を持ってきた。

その写真には俺が写っていた。

写真は白黒でかなりぼろぼろであったが、ゲートルをまいて国民服を着た俺がたっていた。
そして隣には十代後半に見える女性がいた。良家のお嬢さんに見える。
爺さんは話してくれた。その女性はあのお婆さんで隣の俺そっくりな人は○○ということ、戦争が終わったら結婚するはずだったこと。
終戦後その人は帰ってこなかったが婆さんは帰ってくるといい続けたこと。
婆さんは戦後の農地改革で家が没落し、結婚を薦められても頑なに拒否したらしかった。

お婆さんが死ぬ直前弟であるその人に、やっとあの人が帰ってきてくれた、今度は直ぐ戻って来るんだと嬉しそうに語っていたらしい。

弟のお爺さんは死の直前に幻覚をみているのだとしか思っていなかったが、そうじゃなかった、あの人の生まれ変わりが最後に会いに来てくれたんだと号泣しながら語り、俺に何度もありがとう、ありがとうと言っていた。
俺も涙が止まらなかった。

お婆さん、今頃おれのそくっりさんと天国で寄り添っているのだろうか。
またいつか、お墓に花を添えに会いに行くよ。
posted at 2012/03/25 1:07:29
lastupdate at 2012/03/25 1:07:29
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2012/03/24
少し昔話をしようか・・・

俺が中2の時だったかな?
当時はすごく荒れてた。厨二病ってこともあったとは思うんだが。
窃盗、暴力… いろんなことをやってきた。

部活は野球部。荒れていたけれど部活だけは一生懸命だった。
でも顧問の先生はすごく怖かった。何度もやめそうになったよ。
それでも俺は続けた。なにより野球が好きだったから。

そんなある日、事件が起きた。

俺は万引きで警察に捕まったんだよ。

署で指紋をとったり、事情聴取などをした。
無論、警察から親に連絡をして、母が迎えに来ることになった。

母が来て、母は必死に警察の人に頭を下げていた。

そのあと親にはこっぴどく怒られた。母は口をきいてくれない。親父には殴られる…
そのあと警察から学校に連絡され、俺は一週間の部活停止…

顧問の先生にはもちろん怒られた。めちゃくちゃに言われた。

もう終わりだと思ったよ。
このまま部活を退部して、ぐれて、ろくでもない人生を送るんだと思った。

それでも顧問の先生は俺を見捨てなかった。
部活停止の一週間はすべてトイレ掃除だった。全学年のトイレを掃除した。

顧問先生は部活には顔をださず、その一週間、ずっと俺のトイレ掃除を手伝ってくれた。
一生懸命、便器をこすってる先生を見て、俺は思ったよ。

『変わろう』って。

それから俺はぐれることなく、中学、高校を卒業した。
今は普通に働いて、家族もいる。

今の俺があるのは、あの先生のおかげなんだよ。
ありがとうございました。先生。
posted at 2012/03/24 14:36:25
lastupdate at 2012/03/24 14:36:25
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昨日珍しく俺は母ちゃんを外食に誘った。
行き先は昔からよく行く馴染みのラーメン屋だった。

俺は味噌大盛り、母ちゃんは味噌並み盛りを頼んだ。
「昔からここ美味しいのよね」
って、柄にもなく顔にシワよせて笑ってたんだ。

ラーメンが出来上がると、俺も母ちゃんも夢中で麺をすすってた。
あんまりにも母ちゃんがニコニコしながら食べてるもんだから、俺もつられて笑っちまったよ。

しばらく経って、ラーメンを食い終わった俺はふと母ちゃんの方を見たんだ。
ラーメンの器に浮かぶチャーシューが一枚、二枚、三枚・・。
そのチャーシューを捲ると麺がまだ沢山余ってた。

母ちゃんは俺の方を申し訳なさそうに見て、
「ごめんね、母ちゃんもう年だから。ごめんね」
と繰り返してた。

「んなもんしゃーねーべ」と言うと、
俺は母ちゃんの残したラーメンをすすった。

そういやガキの頃、よく無理して大盛り頼んで、結局食べきれなくて母ちゃんに食ってもらってたっけ。
いつの間にか立場も逆転。
あんなに若かった母ちゃんの顔も今じゃシワだらけで、背丈も頭一個分違う。

そのシワの数程今まで散々迷惑掛けたんだろうなって思うと、悔しさと不甲斐なさで涙が出てくる。
母ちゃん、こんな俺を今まで育ててくれてありがとう。
posted at 2012/03/24 14:26:20
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2012/03/23
オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。
それをばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み〜」
ばあちゃんはニコニコしながら、「ほうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがてオレにも友達が出き、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ
家の事情も解消され、自分の家に戻った。ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」と喜んでくれた。 先日、そのばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から、「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか
妖怪も混じっていたり。「ばあちゃん、よく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に 「義弘(オレ)くんに友達がいっぱいできますように」 人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。そしてありがとう。
posted at 2012/03/23 15:29:56
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事情があって生活保護を受けている母子家庭の知人の子供が
夏休みに法事で東京へ来た。
「おじさんがディズニーランドへ連れてってあげるよ」と言うと
頑なに固辞するので、子供のくせに遠慮するなあと思って理由を訊いたら
「だって高いから」とだけ言うと、その子は下を向いてしまった。
「じゃあおじさんと、明日どこかドライブへ行こう」と次の早朝連れ出した。

首都高から湾岸線、浦安で降りるとTDLの看板があり、その子は
まだきょとんとしていたが、駐車場へ入るあの角を曲がったときの
その子の驚きと感動の歓声が忘れられない

持ちきれないくらいのおみやげを買ってやり、
5万くらい使ったが、馬にぶち込むよりはいい使い方だと思った。
posted at 2012/03/23 15:28:17
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2012/03/20
17 名前: 恋愛とは関係ないんですが・・・ 投稿日: 2000/03/06(月) 16:09
祖母がボケ始めた頃、海外在住だった私は一時帰国して、和歌山まで
遊びに行きました。二年程会っていなかったのですが、以前はしゃきっと
していて厳しかった祖母が、仏さんみたいな顔で笑いかけてくれて、電子
ジャーに残っていたご飯でおにぎりをつくってくれました。「食え、食え」
と言って。
祖母と同居していて、一緒にいた従弟が「おばあちゃん、そのご飯、もう
古いんちゃうかー」と明るく言って、私の方をちら、と見て「食わんでええ」
と小声で言いました。でも私はどうしても食べたかった。だから、海苔も
塩味も何もついていない、ご飯を丸めただけのおにぎりを、口にほおばり
ました。電子ジャーの中に何日残っていたのか知りませんが、ご飯はぽろ
ぽろで変色しており、確かにおいしくなかったんですが・・・。
でも祖母が嬉しそうに私のことを見ていてくれたので、こぼさないように
頑張って噛みました。
それが祖母とのこの世での別れになりました。だから今でも、電子ジャーに
残ってしまって、ちょっと古くなったご飯を見るたびに涙がでそうに
なります。ぽろぽろのご飯の舌触りも、絶対に忘れないと思います。

posted at 2012/03/20 19:15:39
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537 名前: にゃん 投稿日: 2000/05/08(月) 21:52
おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて、居場所のわからなかった母に、
祖母の葬式の時、23年振りで、顔をあわせました。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。

その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をして、お酒を飲んで、
はじめはあたりさわりのない話しをしてましたが、
だんだん、「何故いなくなったのか?」という話しになりました。
母はたんたんと話します。
私も、母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら、
聞きました。

帰る時、「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」と、
言ったので、私は「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って」と言いました。
母は、「そんなんで、ええんか」と笑いながら作ってくれました。

帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、「気分悪いんか?」と
聞かはりました。私は、
「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです」と、
泣き笑いしながら、運転手さんに、今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。
「よかったな、よかったな」と鼻水まですすってました。

家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、
元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。

posted at 2012/03/20 19:14:02
lastupdate at 2012/03/24 12:07:04
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2012/03/19
ホームヘルパー養成講座に通っている知人が、講義で聴いた話です。

あるグループホームに入所していた認知症のおじいさんが

自殺をほのめかす言葉を残して、外出しました。

後を追った介護士。

引き留めても感情が高ぶるだけなので、雑談をしながら一緒に歩きました。

歩道橋の上で「ここがいいか」というおじいさんに

「いや、もっと他の場所がいいですよ」。

ビルの屋上に来ると「もっといい場所を探しましょうよ」。

そのうちに、おじいさんは当初の目的を忘れ、介護士と散歩している気分になっていきました。

夕暮れ近く、

おなかがすいたおじいさんは、

目に付いたハンバーガーショップに入りました。

注文をして、

レジの女性に「いくらだ」とポケットから取り出したのは、

くしゃくしゃのティッシュペーパー。

介護士は一瞬、青ざめました。

他人から間違いを指摘されると、

認知症の人は逆上して不安定になることがよくあるからです。

でも、レジの若い女性は落ち着いて、


笑顔でこう答えました。

「申し訳ありません。当店においては現在、

 こちらのお札はご利用できなくなっております」
おじいさんは

「そうか、ここでは、この金は使えんのか」と、

あらためてポケットの小銭を取り出しました。

介護士はすっかり、この店のファンになったそうです。
posted at 2012/03/19 8:22:12
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2012/03/14
70年代の初め、私の家族は、関西のとある新興住宅地に引っ越してきた。山を切り開いて造られた町は、自然に溢れ、太陽の光がさんさんと降り注ぎ、経済成長期の中、これほど幸せな環境はなかった。

私は、その町の新しい中学校に入学し、新しい友達が毎日増えていく、楽しい日々を過ごしていた。

2年生の1学期のこと。お昼休みに、私は女の子に呼び出された。
彼女はノートを差し出して、これに日記を書けと言う。
私は、これが何を意味するのかがよく分からなかった。

家に帰ってからノートを開けてみると、彼女からのメッセージと前日の日記が書かれていた。それまで、日記は正月三箇日しか続かず、昼食と夕食のメニューしか書いていなかった私は、困り果てながらも、その日のページを埋めて、翌日、彼女に渡した。70年代、このような交換日記が流行っていた。

今となっては、自分が何を書いていたのか全く覚えていない。テレビとか、友達のこととか、他愛も無い事を書きつづけていたのだと思う。オバQがムーミンに「変身」する漫画とか、駄洒落とか。それぐらいしか書けなかったと思う。

それでも、1日置きに日記を書いては彼女に渡していた。彼女が何を書いていたのかも覚えていない。そして、そんな日々が1ヶ月ほど続いた。

あれは夏休みの1週間前の土曜日だったと思う。学校が終って、友達たちと近くの小川で遊んでいた。

友達と別れた帰り道、「サトウ君」と呼ぶ声がする。
振り向くと交換日記の彼女が、家の前でホースで水をまいていた。彼女は、いたって機嫌が良かった。チョコレートの懸賞でコダックのカメラが当たったというのだ。

1時間ぐらい話したと思う。帰る前、彼女がそのカメラで「写して」と言うので写真を1枚撮った。そして、次ぎの日の日曜日に会うことにしたのである。「約束よ」と彼女は言った。

次ぎの日も暑かった。大汗をかいて公園に自転車で行った。そして彼女が現れるのを待った。しかし、待てども彼女は来なかった。約束したのにと呟きながら、私はひどくがっかりして夕方、家路についた。

月曜日、彼女は学校を休んだ。組の友達に話すと、「デートでふられたんか」と笑われた。デートのつもりは無かった。いけないことをしてしまったのだろうか?裏切られたのだろうか?私は良く分からないまま、腹を立てた。彼女は、期末まで、とうとう学校を休んだままだった。



夏休みに入ると、私は、田舎の親戚の家に預けられることになった。父が急に転勤することになり、準備のために家はどたばたしていた。関西に戻って来たのは、2学期が始まる約1週間前だった。

帰ると、母が「彼女」が大変な病気で入院していてると言う。私は驚いた。

そして、日曜日に市民病院にお見舞いに行くことになった。私は、事の重大さを全く理解していなかった。母と病院に行くと、彼女の母親が待っていた。そして、私に「来てくれてありがとう」と何度も頭を下げるのだ。

彼女は個室にいた。部屋に入ると、ベットに横たわる彼女がいた。彼女は、病の為に疲れ果て、もうぼろぼろだった。まだ子供だった私は、驚き、恐怖のあまり、走って逃げたのである。大きな病院の中を走り抜け、玄関の外で震えていた。

すると、彼女の母親がやってきて私の手を取り、「待って、お願いだから。ちょっとでいいから、そばにいてやって」と言う。そこへ私の母が来て、いやがる私を無理矢理、彼女の病室まで引っ張って行ったのある。「ちゃんと優しい言葉をかけてあげるのよ」と言われ、私は、彼女のベットの横の椅子に座らされた。

一体、どのぐらい病室にいたのかは覚えていない。

それから数週間後、私の家族はイギリスに引っ越すことになってしまった。イギリスでは、現地の中学、高校に通い、大学を卒業した。日本を忘れ、日本語も忘れ、ロンドンでイギリス人と共に働いていた。イギリスでの生活は12年の月日を数えた。



イギリスに行ったのは父の都合だったが、今度は私が、日本に転勤することになった。そして、また関西に戻って来たのである。帰国して1年ぐらいして、2年2組の友達と、再会することになった。

しかし、12年もイギリスで過ごした為か、昔の友達と会うと、もう話題が全く合わなかった。でも、彼女のことを聞くのは、忘れなかった。

 「なんや、サトウ君、知らなかったんや。」

その時、彼女が、私が転校した約1ヶ月後に亡くなったことを始めて知ったのである。2年2組は、私が引っ越した直後に彼女が死に、その後はクラスから笑顔がぱったりと見られなくなってしまったそうだ。

友人たちと会って数ヶ月後、私は、私がかつて住んでいた町に戻っていた。そして、彼女の家の前で立ち止まっていた。ベルを押すと、「はーい」という声が聞こえ、まもなく彼女の母親が出てきた。

私は、何かを言おうとした。でも、何を言っていいのか分からなかった。そして、「すいませんでした」と一言だけ言うと、逃げ出してしまったのである。

「サトウ君でしょ。待って、お願いだから。」

13年も過ぎているのに、彼女の家に始めて入ると、70年代当時の面影があった。彼女の母親は、冷たいジュースを勧め、本棚にあった10冊のアルバムを出してきた。そして、彼女が亡くなるまでの、ことの経緯を話しくれた。

あの日曜日の約束の日、彼女は朝から微熱があり、気分が優れなかったのに、これから出かけると言い出した。寝てなさいと言う母親と娘は大喧嘩となり、彼女は、飛び出していった。

ところが、10分もしない内に近所の人が駆けつけてきて、彼女が路上で倒れていると伝えた。暑さの中、失神している彼女を背負って家に連れ帰り、救急車を呼んだ。最初は原因がわからず、病状はどんどん悪くなっていった。

入院中、彼女はひどくふさぎこんでいたのだが、時々、「勉強用に」と持ってきたノートを見ながら、くすくすと笑う彼女に、母親も最初はそれが何か気がつかなかったらしい。病状が悪化して、始終眠る彼女の枕もとのノートを手にとって始めて、それが彼女と私が書き綴った交換日記だったことを発見したのだ。


彼女の母親は私の母親に会いに行き、娘の病状を説明した。それが、私が田舎から戻ってくる数日前だったのである。

「あの時、サトウ君が『がんばってね』と言ってくれたので、その後、ちょっとは回復して、後数日しかないと言われていたのに1ヶ月半も持ったのよ。」

アルバムを開けると、みんなから愛され、大切にされて育った彼女の写真が、ページを捲るごとに見られた。そして、最後のページには、あの土曜日に私が写した彼女の笑顔が飾られていた。

 「あの交換日記はね、娘が天国に持って行ったわ。」

大粒の涙が止まらなかった。

あれからさらに13年。私は、骨髄バンクへのドナー登録のために秋葉原の献血センターに行った。ひどく寒い日だった。採血を済まし、10ccの私の血がトレイに置かれているのをじっと見つめながら、ようやく、生きている意味が分かったような気がした。
posted at 2012/03/14 22:45:05
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