クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/06/14
919:名無しの心子知らず :2010/06/09(水) 09:00:45 ID:9vIYNNay [sage]
破水しちゃってすごくすごく慌ててたんだよね。「まだまだ生まれない」って医師から言われてて安心しきって散歩してる途中だった。
携帯忘れてしまって、母子手帳見ながら公衆電話で病院に電話した。
そしたら番号ひとつ間違ってたらしくてね。通じたのは街の中の老舗寿司屋。
店の名前聞き取れないくらいパニックで、「38週の妊婦で」とまくし立ててしまったら、
「母さん落ち着いてくれ。うちはな、よくその病院と間違って電話くるがただの寿司屋なんだ。今どこにいる?破水したんなら動かないほうがいいだろう。救急車か?」
いい人すぎた。でも私はろくにお礼も言わず謝りまくって自分でタクシー呼ぶと切ってしまった。
病院に到着寸前くらいから陣痛がついてきて、夫も到着し安心したら寿司屋が気になって気になって。
私「寿司屋さんに電話して」
夫「うん。生まれたらお祝いしようね」
私「違う。お礼したいから」
夫「そっかー赤ちゃんへのお礼かあ」
私「違う。お世話になったから」
夫「自分へのご褒美?」
私「違う。今日電話したの」
夫「家に届くんだ」
私「違う!(陣痛MAX)スシーーーーーー!!!!」オンギャー
翌日超笑顔でコンビニのパック寿司買ってきた夫を殴り飛ばして自分で電話してお礼とお詫びしといた。
その寿司屋さんから「あの時の赤ちゃんが一歳になる頃だからお祝いさせてほしい」と電話があって感動カキコ。
posted at 2012/06/14 0:23:58
lastupdate at 2012/06/14 0:23:58
修正
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2012/06/17
少し長編になるかもしれませんが
最近気持ちの整理もできたので書いてみます。

今から6年前の話です。
僕がまだ10代で、あまり携帯電話は普及してなくて
ポケベル全盛期の時代のことです。

僕はその頃高校を出て働いていたんですけど
2つ年上の女性と付き合っていました。
お互いの親にも会ったりして
僕は結婚する事を信じて疑いませんでした。

毎朝ポケベルに「オハヨウ」とか
「ガンバッテネ」みたいなメッセージのやりとりをしていたのですが、
ある日僕がメッセージを送るのがめんどくさくて送らない日があって、
彼女からもメッセージは送られてきませんでした。
ちょうどその日は給料日で
僕は今日は彼女にメシでもおごろうと
どこに行こうか考えていました。
仕事が1段落つき、昼休みに入り
食事に行こうとした時に僕宛の電話がなりました。
その電話は彼女の交通事故を告げる電話でした。

僕はその電話を置いた後、
しばらく何のことかわからなかったんですが、
「今意識不明だ」という言葉に体中汗ばんだのを覚えています。
すぐに無理やり会社を早退し
彼女が運ばれた病院へ向かいました。
電車の中で「実はたいした事ないんちゃうかな?」
とか自分に都合のいい方にしか考えたくなかったんですが、
「もしかしたら・・」って考えると周りに人がいるのに
ボロボロと涙が出てきて、すごくさみしい気持ちが溢れてきました。

僕が病院に着く頃には、意識が戻っている事を祈りながら
病院まで走っていきました。
彼女の家族に出会い、容態を聞いてみると
彼女は集中治療室に入っている、という事を聞いて
事態の深刻さを悟りました。
外傷はほとんどなく、脳にショックを受けたらしく
まだ意識は戻っていませんでした。

僕はとりあえず会社に彼女の意識が戻るまで休む事を
電話で伝えて病室の前で、意識が戻るのを待つ事にしました。

その日は病院のソファーで、ほとんど眠れずに夜を明かしました。
目の前のストーブで背中は寒かったのに
顔だけがすごく火照っていました。

結局その日は意識が戻る事なく
次の日の朝1番で着替えなどを家にとりに帰りました。
病院に帰ってみると明日手術ができるかどうかが
わかるだろうという、医者からの話があったそうです。
そして5分だけ面会時間がもらえるとの事で、
僕は会いたいような会いたくないような、
複雑な気持ちでしたが、給食当番の時の様な服を着て
彼女に会いに部屋にはいりました。
部屋の中は訳のわからない機械がいっぱいで
その中のベッドの一つに彼女が寝ていました。
まるで眠っているだけの様な顔で
名前を呼べば今すぐにでも起き上がってきそうでした。
手を握ると腕のあたりに、点滴などの管が何本も刺されていて
容態の悪さを物語っているようでした。
それと唇が妙にカラカラになっているのが気になりました。
5分間をいうのは短いもので、
何か話しかけようとしたのですが、
なんとなく周りの目が恥ずかしくて
言葉らしい言葉をかけれませんでした。

その日は少し気分も落ち着いて
なぜか「絶対大丈夫!」という根拠のない自信でいっぱいでした。
それからは彼女の意識が戻ってからの事ばかり
考えるようになり、頭の手術するんやったら
髪の毛剃らなあかんから、帽子がいるし買いに行こう!
と看病の事を考えて買い物に行く事にしました。
この時僕は目を覚ました彼女を喜ばせる事だけを考えていました。
さっそく帽子を探しに行き、
キャップは似合わんし、ニット帽だとチクチクするから
という事で、綿で出来た帽子を探して買いました。
買い物が済んで、帰ろうとした時に
街中を歩く女の子を見てると、
なんか自分が現実から少しズレた場所にいるような気がして
妙な不安を感じました。
その不安からか、彼女の意識が戻ったら正式にプロポーズしようと
安物ですが指輪まで買って帰りました。

その日も結局容態に変化はなく過ぎていきました。

次の日のお昼前、彼女の父親だけが医者に呼ばれて
病状の説明を受けるとの事だったのですが、
無理を言って僕も同席させてもらいました。
どうしても自分の耳で医者から聞きたかったんです。
多分あれほど緊張した事は今までになかったと思います。
医者の部屋に入って、医者の顔色を見てみると
どっちともとれない無表情な顔をしていました。
医者が口を開いて、簡単な挨拶が終った後喋り出したのですが、
病状はよくなるどころか病院に運ばれた時点で
すでに手遅れでした。
僕はこれを聞いて頭がグラグラして
椅子から落ちないようにする事しか考えれませんでした。
どうやら今治療をしている様に見えるのは、
家族に心の準備をさせる為に
無理やり心臓を動かして、体だけ生かして少しずつ
悪い方向へ持っていくというものでした。

僕は部屋を出て彼女の父親に、家族にはまだ言わないで欲しいと言われ
泣き出しそうなのをこらえて、母親に話かけられても
「用事が出来た」とだけ言い残して、誰もいない場所まで走りました。
街中であれだけ涙を流して大声で泣いたのは初めてでした。

それからちょうど涙が枯れた頃、病院へ戻りできるだけ普通に振舞いました。
その夜、彼女の父親と銭湯へ出かけました。
二人ともほとんど無言で風呂に入り、
話す事といっても関係ないどうしようもない会話ばかりでした。
僕は彼女の父親にはどうしても聞いておきたい事がありました。
僕が彼女と結婚するって言ったら許してくれるかどうかでした。
今考えると絶対に聞くべきではない時に聞いたような気がします。
病院に戻る前に父親を呼び止めて
ストレートには聞けなかったのですが、
買ってきた指輪を彼女の指につけてもいいか?と聞きました。
彼は黙ってうなずくだけでした。
その夜は眠る事ができなくて、家族と顔をあわせると泣いてしまいそうで
外で一人で過ごしました。

次の日また5分だけ面会できるということだったので、
もう1度彼女の顔を見に行きました。
彼女の顔は相変わらず眠っているようで
もう目を覚まさない事がウソのようでした。
僕は彼女の左手にこっそりと指輪とつけました。
もう何の意味もないのはわかっていましたが、
少しでも彼女に近づきたいという気持ちでいっぱいでした。
みんなが部屋を出た後僕は忘れ物をしたそぶりをして
ベッドの側に戻り、彼女のカラカラの唇にキスをしました。

それからしばらく経ち、彼女は一般病棟の個室に移ることになりました。
医者が言うにはもう長くないので
少しでも家族が長く一緒に入れるようにとの配慮だそうです。
僕は1日のほとんどをその部屋ですごすようになりました。
何もする事もなかったのですが、
話かけると声が届いてるような気がして
耳元で歌を歌ったり、話し掛けたりしていました。
そして夜が明けて昼すぎになると、医者と看護婦が入ってきて
みんなを呼んでくださいみたいになって、
みんなが見守る中、心拍数を表示しているピッピッってなる
機械に異変が見られるようになりました。
最後まで僕に片方の手を握らせてくれた
彼女の家族に感謝しています。
それから1時間ほど経った後、
そのまま静かに心臓が停止しました。
僕も含め部屋にいる人みんなの泣き声だけが聞こえてきて、
覚悟はしていたものの、本当にこうなった事が信じられなかったのですが、
医者の何時何分とかっていう声に現実に引き戻されました。

そして部屋にいる全員が驚く事が起こりました。
僕が握っていた彼女の手がものすごい力で
僕の手を握り返してきたのです。
僕は本当に驚いて多分変な声を出していたと思います。
しばらくして彼女の手からスーっと力が抜けていきました。
僕は涙はふっとんで、全員にその事を伝えました。
すると彼女の母親が
「きっと一生懸命看病してくれたからありがとうって言ってるんやで」
って言ってくれました。
冷静に考えると死後硬直だったのでしょうけども、
その彼女の母親の一言で僕は今まで道を間違わずにこれたと思います。

年上だった彼女は今では僕の方が年上です。
posted at 2012/06/17 0:16:40
lastupdate at 2012/06/17 0:16:40
修正
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2012/06/18
私は右手に障害があります。

兄弟が二人いますが、彼らは生まれたときから
幼児期の写真がたくさんあるのに私の写真はありませんでした。
両親に理由を聞くと、「カメラが壊れていて撮れなかったの。」と言っていました。

物心ついたときから私は自分の障害について認識をはじめ、
他人への劣等感、最終的には自分が生まれてきたことへの恨み、
そして両親への恨みへとつながっていきました。
小学校の頃は両親に「右手は20歳くらいまでには治るかな??」
などと聞いていたりしたのですが、上のようなこともあり、
「何で俺は右手が使えないの?何で俺を生んだの?」
と不躾な、両親からしてみると非常にやりきれない文句をいっていたことを覚えています。

今、私は大学の卒業を控え、両親の私を育ててきた苦悩を
多少なりとも知ることができます。
障害をもって生まれてきた私に衝撃を受けて生後しばらく自暴自棄に
なってしまった母親とそれを立ち直らせるために母親を殴った父親の悲しみ、
写真が少ないのもしばらく私に愛情を注ぐことができなかったから、
そのような背景があるからなんです。

でも、私の記憶にある両親は私にたくさんの愛情を注いでくれました。
幼い頃、寝るときいつも父に右手を握ってもらって寝てたことは忘れません。
「おまえの手が早く治るように。」この父の願いは叶わない事は今ではわかります。
一生付き合っていかなければならない障害ですが、私がこの世に生を受けてきたこと、
両親が頑張って育ててきてくれたこと、絶対恩返しします。

来春から就職。本当に頑張って働いて絶対に親孝行します。
パパ、おかあちゃん、長生きしてください。
乱文失礼しました。
posted at 2012/06/18 0:01:21
lastupdate at 2012/06/18 0:01:21
修正
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2012/06/19
私の母は、趣味の一環(?)で。年末になると毎年
お正月のおせち料理を食べるときに使う祝い箸を
あらゆる知人に配っています。
昨年、母は癌?で家族と離れ、京都の方に入院している
同僚の男の方に、何の気なしに箸を送りました。
その時、病気の進行により、既に食事はおろか流動食をチューブで
流し込むんでいる状態だとは知らなかったからです。
後でその事を知人から聞き、無神経なことをしてしまった、と
母は後悔していました。
しかし、お正月明けに来た一通の手紙。
その同僚の方からでした。
手紙には、このように書かれていました。
「病気になって初めて健康であることの大切さを、
食べるという基本的な人間の行動すらできなくなった自分は
切実に痛感し、半ば放心的になっていました。しかし、
そんな私にもいつもと変わらず箸を送ってくれてありがとう。
正月までにはこの箸を使って食事ができるように、頑張ろうという
大きな励ましになりました。本当にありがとう。」
手紙を読みながら母は泣いていました。
翌月、その方は亡くなってしまいましたが、母のした
行動は、彼にとってすごく勇気づけられたことだったんだなぁ
と思いました。

働きすぎの私のお母さん。
あなたも健康に気を付けて長生きしてね。
posted at 2012/06/19 0:04:38
lastupdate at 2012/06/19 0:04:38
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2012/06/21
ある日の夫
野菜スープを作ってたら
「今日カレー?」と聞いてきた
またある日の夫
付け合せにするジャガイモを切っていたら
「今日カレー?」と聞いてきた
別のある日の夫
そうめんを茹でるため大鍋を取り出すと
「今日カレー?」と聞いてきた
昨日の夫
玉ねぎの皮を剥いていると
「今日カレー?」と聞いてきた
今日の夫
私が「今日こそカレーだよ」と言うと
(*゚∀゚*) って顔して出勤した
posted at 2012/06/21 0:11:00
lastupdate at 2012/06/21 0:11:00
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2012/06/23
学生時代、書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。
本当は泊まる予定だったんだが、次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので
結局日帰りにしてしまった。
母にサインやら捺印やらをしてもらい、帰ろうとして玄関で靴紐を結んで
いると、父が会社から帰ってきた。
口数が少なく、何かにつけて小言や私や母の愚痴を言う父親のことが苦手で、
一緒に居ると息苦しさを感じていたの私は、父が帰宅する前に帰って
しまいたいというのも、日帰り、ひいては通えない距離の学校を選んだの
理由の一つだった。
父が、「お前、泊まるんじゃなかったのか」と訊いたので、
「ちょっと忙しいから」とぶっきらぼうに答えると、手に持っていた
ドーナツの箱を私に差し出し、
「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから」と言った。

駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は
待たされるようだった。
小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。
3個ずつ3種類入っていた。
家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれないよ。
箱の中を覗き込みながら苦笑した。
その直後。
あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうな―。
ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。
様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、どれもこれも
切なかったり苦かったりばっかりで。
手持ちのポケットティッシュが無くなっても、ハンカチが洗濯して干す前
みたいに濡れても涙は止まらなくて、
結局、一本あとの電車が来るまで駅のベンチでずっと泣き続けていた。
posted at 2012/06/23 0:04:37
lastupdate at 2012/06/23 0:04:37
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2012/06/24
今から9年前、当時は仕事の関係で家内ともに海外赴任していました。
ある日、日本からの突然の電話、家内のお母さんが急に亡くなったとのこと。
自分も家内にうまく事情を説明できないまま、飛行機で帰国。飛行機の中では家内は泣きっぱなしでした。
自分のできることは手をしっかりと握りしめることだけでした。
24時間かけて日本へ到着し、葬儀場で変わり果てたお母さんの姿を見て家内は号泣しました、周り私も号泣でした。
あんな泣いた家内は初めてでした。
お母さんと最後に会ったのが1年半前、元々病気で寝込んでいたのですが、娘に心配かけない様にと家内の父はその事をずっと連絡しなかったんです。
「もう少し早くわかっていれば亡くなる前に会えたのに・・」と悔やんでいたのを思い出します。
そのお父さんも一昨年なくなりました。家内35歳にして両親を失ってしまいました。
特にお母さんには孫を抱かせてあげたかったな・。 家内のことはずっと一生大切にしていこうと誓いました。
posted at 2012/06/24 0:00:33
lastupdate at 2012/06/24 0:00:33
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2012/06/25
我家は母子家庭。
もちろん裕福ではないけど、つつましく暮らせば生活に困るような事もないような家庭のつもりだったのですが。

ある日、元々指輪など装飾品にそれほど興味のなかった私が珍しく超々安物の指輪を気に入って購入した夜。
私「ねえ、これかわいいでしょ〜?」(本当に気に入ってたから)
小4の息子「買ったの?」
私「うん、どう?」
息子「高かった?」
私「まっさかーー、500円だったかな」

その後、何故か息子は下を向いて黙ってしまいどうしたのかと思ってたら
「俺が大きくなったら、すっごい高い指輪買ってあげるから」って涙ふきふき言われてしまいました。

買えないから買わないのももちろんあるけど、我慢するほどそういうのが欲しい私ではなかったのに、息子は、きっと勘違いしちゃったんだろうなって。
でもそんな気持ちが嬉しくて、私も泣き笑いしちゃった。

これから先、何があってもこの子がいてくれたら乗り越えていける、って改めて思わせてくれた夜でした。
posted at 2012/06/25 0:02:46
lastupdate at 2012/06/25 0:02:46
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2012/06/27
あれは、俺が中学校2年生の時だったな。俺が住んでた町の夏祭りの日だった。
仲の良かった友達3人と夏祭りに行ったんだけれど、そこで同じ学校の女子生徒3人組と出会ったんだ。

気が付いてみると、俺以外の3人はなんかすごく仲良く話してるんだよね。
俺、なんだか話してる内容もよく分からないし、そんなに仲も良くなかったから暇でさ。妙に居心地悪かったんだよ。

で、そうこうしてる内に花火が始まって俺は花火を見てた。
気が付いたら周りに友人たちはいなかったんだ。
はぐれたな…って思った。一人でこんなとこいてもしょうがないから花火だけ見て帰ったんだけど、その途中に楽しそうな6人組を見たよ。

声もかけられなかった。見つからないように帰った。
家に帰る途中、自販機でコーラを買ってたら、カツアゲされた。
その後の俺の性格を決定した一日だった。
posted at 2012/06/27 0:12:11
lastupdate at 2012/06/27 0:12:11
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2012/06/28
母方の曾祖母の話。
身内で唯一の曾祖母で私が会いに行くと「アイスでも買ってお食べ」と毎回
1000円をくれた。
毎回お金をくれるし温和な性格だったから、しょっちゅう遊びに行ってた。
曾祖母と祖母は同じ家から嫁に来ていて(曾祖母が養女だったらしい)、
曾祖母は気の強い祖母にいつも気を使っていた。意見を通すことは滅多に無く、
いつの頃からか晩酌にコップ1杯の日本酒を飲んで不満を忘れようと
しているように見えた。
いつからか私が小声で話すのは聞こえても祖母に話し掛けられると
耳の遠いふりをするようになった。

曾祖母の体調が悪くなって入退院を繰り返すうち、祖母はだんだん厄介者扱い
をするようになり、寝ているベットにはあまり行かなくなった。
曾祖母はお風呂が大好きだったが、介護で入浴させることは大変だったらしく
あまりお風呂には入れていなかったようだった。
曾祖母が危ないという話だったので駆けつけてみると、うわごとのように何かを
呟いている。

私も上手く聞き取れなくて「ぴいばあちゃん、お風呂に入りたいの?」
と言うと、大きく頷いた。握った手をぎゅっと握り返してきた。
私は必死に「ぴいばあちゃん、お風呂に入りたいって言ってるよ、
入れてあげようよ!」と言ったが、何年も介護している祖母に対しては
言わなかったことらしく、
「もう何も反応も無いし、そんなこと言うわけ無いよ」と言われた。
半泣きで「お風呂に入れてあげようよ」と繰り返したが、聞き入れてもらえな
かった。
内孫でない私が言ったところで聞き間違えにしか取ってもらえなかった。
ぴいばあちゃん、ごめんね。私がもっと強く意見を言えば、もしかしたら
お風呂に入れたかもしれなかったのに。ごめんね。

曾祖母が亡くなって10年以上が経ちました。
たまに曾祖母の手の暖かさを思い出しては涙がこぼれます。
posted at 2012/06/28 0:08:01
lastupdate at 2012/06/28 0:08:01
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