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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。
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2012/07/12
[泣ける話]
俺はいつも同僚のかおちゃんに言っていたんだ
俺はかおちゃんのことが好きだ
それだけで幸せ
かおちゃんが俺のこと好きにならなくても
幸せなんだ
かおちゃんはテレやだから
感情をストレートに出さなかったし
遊びに誘ってもてれて断ってた
だから俺はかおちゃんから
すかれていないと思っていたんだ
そんなかおちゃんは最近新潟の地震にあってなくなった
かおちゃんの部屋からは日記が発見されて
そこに俺のことが書いてあったらしい
私は○○さん(俺)が好き
恥ずかしくて自分の気持ちうを言葉に出せないけど
○○さんがいることで私は幸せ
って。
俺はかおちゃんのことが好きだ
それだけで幸せ
かおちゃんが俺のこと好きにならなくても
幸せなんだ
かおちゃんはテレやだから
感情をストレートに出さなかったし
遊びに誘ってもてれて断ってた
だから俺はかおちゃんから
すかれていないと思っていたんだ
そんなかおちゃんは最近新潟の地震にあってなくなった
かおちゃんの部屋からは日記が発見されて
そこに俺のことが書いてあったらしい
私は○○さん(俺)が好き
恥ずかしくて自分の気持ちうを言葉に出せないけど
○○さんがいることで私は幸せ
って。
posted at 2012/07/12 0:02:31
lastupdate at 2012/07/12 0:02:31
【修正】
2012/07/13
[泣ける話]
私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。
病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。
翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。
チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。
甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。
病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。
翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。
チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。
甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!
posted at 2012/07/13 0:05:10
lastupdate at 2012/07/13 0:05:10
【修正】
2012/07/14
[泣ける話]
私には、お母さんが二人いた。
一人は、私に生きるチャンスを与えてくれた。
もう一人は……
私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。
私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。
生みの親より育ての親…なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒り
と、馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いてい
た。
翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。
そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。
その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、口もきか
なくなってしまった。なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。
それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙を
差し出してきた。が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。
それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、私はろく
すっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。
・・・翌日、母は帰らぬ人となった。
居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。
即死だった。
あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばでぼう然と
していた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。
昨日の手紙であった。
そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。
「千夏ちゃんへ
17年間騙していてごめんなさい。お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、あ
なたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。あなたの気持
ち、とてもよくわかる。だってお母さん、偽者だったんだもんね…。でもね、お母さん、
あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。千夏が成人しても、旦
那さんができてもずーっと…」
泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。
そして最後に震える字でこうあった。
「…だから、、、また「お母さん」って呼んでね。」
私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。
人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。
「お母さん…」
一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。
一人は、私に生きるチャンスを与えてくれた。
もう一人は……
私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。
私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。
生みの親より育ての親…なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒り
と、馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いてい
た。
翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。
そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。
その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、口もきか
なくなってしまった。なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。
それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙を
差し出してきた。が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。
それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、私はろく
すっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。
・・・翌日、母は帰らぬ人となった。
居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。
即死だった。
あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばでぼう然と
していた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。
昨日の手紙であった。
そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。
「千夏ちゃんへ
17年間騙していてごめんなさい。お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、あ
なたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。あなたの気持
ち、とてもよくわかる。だってお母さん、偽者だったんだもんね…。でもね、お母さん、
あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。千夏が成人しても、旦
那さんができてもずーっと…」
泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。
そして最後に震える字でこうあった。
「…だから、、、また「お母さん」って呼んでね。」
私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。
人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。
「お母さん…」
一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。
posted at 2012/07/14 0:13:08
lastupdate at 2012/07/30 20:12:29
【修正】
2012/07/16
[泣ける話]
高校生の時に付き合ってた人がデートの別れ際に私の目の前に交通事故にあった。
私が救急車をよんで彼は「全然大丈夫だから」と言って救急車に乗り込んだ。
ほんとにその時は全く平気っぽくみえて私も安心していた。でもその夜に彼が死んだ。
なんにも感じなかったし、彼が死んだことを受け入れられなかった。
お葬式の日も私は全く悲しいとかそういう感情もなくて、彼が死んだことになにも感じなかった。
そんな自分を責めたりもしたけど、どうしても悲しくなかったし、泣くこともできなかった。
周りはすごく私に気を使ってくれたんだけど、そう言う風に気を使われるのも私にとっては
うっとおしいだけだった。
半年ぐらい経って友達と死んでしまった彼のことを話していると
なぜだか急に涙があふれてきて私は泣き崩れた。自分でもびっくりするぐらい涙が出て、
悲しいって感情は無いのにどうして涙だけが出るのかわからなかったけど、
彼氏が死んでから半年経ったその時私は初めて泣いた。
私が救急車をよんで彼は「全然大丈夫だから」と言って救急車に乗り込んだ。
ほんとにその時は全く平気っぽくみえて私も安心していた。でもその夜に彼が死んだ。
なんにも感じなかったし、彼が死んだことを受け入れられなかった。
お葬式の日も私は全く悲しいとかそういう感情もなくて、彼が死んだことになにも感じなかった。
そんな自分を責めたりもしたけど、どうしても悲しくなかったし、泣くこともできなかった。
周りはすごく私に気を使ってくれたんだけど、そう言う風に気を使われるのも私にとっては
うっとおしいだけだった。
半年ぐらい経って友達と死んでしまった彼のことを話していると
なぜだか急に涙があふれてきて私は泣き崩れた。自分でもびっくりするぐらい涙が出て、
悲しいって感情は無いのにどうして涙だけが出るのかわからなかったけど、
彼氏が死んでから半年経ったその時私は初めて泣いた。
posted at 2012/07/16 0:00:57
lastupdate at 2012/07/16 0:00:57
【修正】
2012/07/18
[泣ける話]
恋話なるが聞いてくれ
泣ける話かも分からんが
卒業式が終わった
いや終わったというか抜け出した
呆れた、ウザかった、アホらしかった
やっと開放されたと思った
俺はこの中学の野球部を東海大会まで導いてやった
でも、誰も認めてくれなかった
無失点で投げ続けて降板、そのあと下級生が打ち込まれて俺の夏終わりだぞ
しかも俺が戦犯になってる
バカばっかだwww
おかげで私立の推薦もパーだ
誰ともつるみたくない、帰ろう
そう思って校門を抜けようとした
「大◯君?」
振り返って見ると塾で知り合った他中の女の子だった
実は少し気になってた子だった
ポニーテールだったし
「お前、何してんの?お前んとこも卒業式今日だろ?」
聞いてやった
まぁ暇つぶしにはなると思ったからな
「サボっちゃったw」
そいつはまた言葉を続けた
「今日は君に言いたい事があって来ました」
「?」
少し沈黙がおとずれた
「私は君が好きです」
短い言葉だったが思いは伝わった
でも答えに迷った
少し考えたかった
俺も人間不信だったから
「悪いけど少し考えさせて、また連絡するから」
そういうと彼女は少しさみしげに帰って行った
今思うと何でそこで答えを出さなかったのか後悔している
3日位たって俺は答えがまとまった
「あいつと付き合う」と
そして彼女に電話で伝えようとした
でも電話に出ない
何回コールしても何分まっても
一向に出なかった
その時に見ていたテレビにニュース速報が流れた
火災一軒家全焼中から◯◯さん(15)が遺体で発見
紛れもなく彼女の名前だった
原因はストーブの切り忘れだった
どうして・・・
泣ける話かも分からんが
卒業式が終わった
いや終わったというか抜け出した
呆れた、ウザかった、アホらしかった
やっと開放されたと思った
俺はこの中学の野球部を東海大会まで導いてやった
でも、誰も認めてくれなかった
無失点で投げ続けて降板、そのあと下級生が打ち込まれて俺の夏終わりだぞ
しかも俺が戦犯になってる
バカばっかだwww
おかげで私立の推薦もパーだ
誰ともつるみたくない、帰ろう
そう思って校門を抜けようとした
「大◯君?」
振り返って見ると塾で知り合った他中の女の子だった
実は少し気になってた子だった
ポニーテールだったし
「お前、何してんの?お前んとこも卒業式今日だろ?」
聞いてやった
まぁ暇つぶしにはなると思ったからな
「サボっちゃったw」
そいつはまた言葉を続けた
「今日は君に言いたい事があって来ました」
「?」
少し沈黙がおとずれた
「私は君が好きです」
短い言葉だったが思いは伝わった
でも答えに迷った
少し考えたかった
俺も人間不信だったから
「悪いけど少し考えさせて、また連絡するから」
そういうと彼女は少しさみしげに帰って行った
今思うと何でそこで答えを出さなかったのか後悔している
3日位たって俺は答えがまとまった
「あいつと付き合う」と
そして彼女に電話で伝えようとした
でも電話に出ない
何回コールしても何分まっても
一向に出なかった
その時に見ていたテレビにニュース速報が流れた
火災一軒家全焼中から◯◯さん(15)が遺体で発見
紛れもなく彼女の名前だった
原因はストーブの切り忘れだった
どうして・・・
posted at 2012/03/24 0:03:01
lastupdate at 2012/06/07 13:18:55
【修正】
[泣ける話]
私は小さい時から中耳炎で、しょっちゅう耳が痛くなって治療のために耳鼻科に行っていました。
小学校に入ると私が耳鼻科に行くために学校を休んだり早退したりすると
クラスの子に「病気でもないのに、授業を受けたくないから仮病を使っているんだ」と
散々からかわれて辛い思いをしていました。
うちの母は片耳が難聴で聴こえないんですが、おばあちゃん(母方の)がそれを気にしていつも
「ごめんね、お母さんの耳が悪いから○○ちゃんの耳も悪くなってしまって」と私に謝るのです。
小学3年生のある日、おばあちゃんが急にうちに遊びに来て「これから巣鴨に行こう」と言い出しました。
当時は子供すぎて巣鴨に何があるなんて知らなくて、ただおばあちゃんと出かけるのが嬉しくてついて行きました。
巣鴨に着くとおばあちゃんは長い行列に並んで
「ここはとげぬき地蔵様があるんだよ、お地蔵様の自分の体の悪いところを洗うと
身代わりになって治してくれるの」と言いました。
私たちの順番になるとおばあちゃんはシワシワになった手でタワシを持ってお地蔵様の左耳を
ゴシゴシと擦りながら「○○ちゃんの耳がよくなりますように」と一生懸命洗ってくれました。
帰りにおばあちゃんは「あんみつ食べて行こうか」と言って一緒にあんみつを食べました。
おばあちゃんは6年ほど前に亡くなったんですが、おかげで今では中耳炎も良くなり、ここ5年は中耳炎で耳鼻科に行ったことが一度もないくらいになりました。
おばあちゃん、中耳炎良くなってきたよありがとう。
リアル出会いの決定版!
小学校に入ると私が耳鼻科に行くために学校を休んだり早退したりすると
クラスの子に「病気でもないのに、授業を受けたくないから仮病を使っているんだ」と
散々からかわれて辛い思いをしていました。
うちの母は片耳が難聴で聴こえないんですが、おばあちゃん(母方の)がそれを気にしていつも
「ごめんね、お母さんの耳が悪いから○○ちゃんの耳も悪くなってしまって」と私に謝るのです。
小学3年生のある日、おばあちゃんが急にうちに遊びに来て「これから巣鴨に行こう」と言い出しました。
当時は子供すぎて巣鴨に何があるなんて知らなくて、ただおばあちゃんと出かけるのが嬉しくてついて行きました。
巣鴨に着くとおばあちゃんは長い行列に並んで
「ここはとげぬき地蔵様があるんだよ、お地蔵様の自分の体の悪いところを洗うと
身代わりになって治してくれるの」と言いました。
私たちの順番になるとおばあちゃんはシワシワになった手でタワシを持ってお地蔵様の左耳を
ゴシゴシと擦りながら「○○ちゃんの耳がよくなりますように」と一生懸命洗ってくれました。
帰りにおばあちゃんは「あんみつ食べて行こうか」と言って一緒にあんみつを食べました。
おばあちゃんは6年ほど前に亡くなったんですが、おかげで今では中耳炎も良くなり、ここ5年は中耳炎で耳鼻科に行ったことが一度もないくらいになりました。
おばあちゃん、中耳炎良くなってきたよありがとう。
リアル出会いの決定版!
posted at 2012/07/18 0:08:42
lastupdate at 2012/07/18 0:08:42
【修正】
[泣ける話]
うちの家族は母と私(長男)、弟が二人の母子家庭。
父と母は、私が5才の時に離婚をし親権は母親へ。「扶養金なんかいらない」と言い残
し、私たち兄弟を引き取ったらしい。女・酒・ギャンブル。全てに手を付けていた父の下
に、一人でも子供を残して行きたくなかったのだろう。
母はそれからというもの、幼い私たちからひと時も目を離したくなかったのだろうか、
私たちの入園した保育園で働き始めた。
お世辞にも給料は良いとは言えない。おそらく12、3万だっただろう。自分には何一つ
買わず、全てを子供の為に注ぎ込んだ母。いつもボロボロの服を着ていたのを覚えてい
る。しかし、それでも生活は厳しく、唯一ボーナスを貰ったときだけ食べに行ったのが、
ある定食屋の塩ラーメンだった。野菜がたくさんのった塩ラーメンを食べているあの時間
だけが、私たち家族の至福の時だった。…そう、夏と冬、二度だけの。
今では兄弟も成人し、家族四人なに不自由なく暮らしている。住むところはまちまちだ
が、そんなことを感じさせないほど、家族の絆は深い。…兄弟三人。しかも年子で男ばか
り。これを、女手一つでここまで育て上げた母を、私は世界中の誰よりも尊敬している。
そして、その定食屋はというと。…大変残念な事に、数年前に店主が癌で亡くなり、今
はその形だけが残り、シャッターを下ろしている状態である。しかし、今でもあの店の雰囲気と、四人で過ごしたあの時間を生涯忘れる事はないだろう。
父と母は、私が5才の時に離婚をし親権は母親へ。「扶養金なんかいらない」と言い残
し、私たち兄弟を引き取ったらしい。女・酒・ギャンブル。全てに手を付けていた父の下
に、一人でも子供を残して行きたくなかったのだろう。
母はそれからというもの、幼い私たちからひと時も目を離したくなかったのだろうか、
私たちの入園した保育園で働き始めた。
お世辞にも給料は良いとは言えない。おそらく12、3万だっただろう。自分には何一つ
買わず、全てを子供の為に注ぎ込んだ母。いつもボロボロの服を着ていたのを覚えてい
る。しかし、それでも生活は厳しく、唯一ボーナスを貰ったときだけ食べに行ったのが、
ある定食屋の塩ラーメンだった。野菜がたくさんのった塩ラーメンを食べているあの時間
だけが、私たち家族の至福の時だった。…そう、夏と冬、二度だけの。
今では兄弟も成人し、家族四人なに不自由なく暮らしている。住むところはまちまちだ
が、そんなことを感じさせないほど、家族の絆は深い。…兄弟三人。しかも年子で男ばか
り。これを、女手一つでここまで育て上げた母を、私は世界中の誰よりも尊敬している。
そして、その定食屋はというと。…大変残念な事に、数年前に店主が癌で亡くなり、今
はその形だけが残り、シャッターを下ろしている状態である。しかし、今でもあの店の雰囲気と、四人で過ごしたあの時間を生涯忘れる事はないだろう。
posted at 2012/07/18 0:08:42
lastupdate at 2012/07/18 0:08:42
【修正】
2012/07/22
[泣ける話]
1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』
話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。
しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。
昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』
話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。
しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。
昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。
posted at 2012/07/22 0:08:29
lastupdate at 2012/07/22 0:08:29
【修正】
[泣ける話]
かぁさん…ごめん。俺はかぁさんに迷惑ばかりかけてきた。ある日警察が家に来て警察所
で強盗致傷容疑で逮捕された。地元のニュースや新聞にもでた。捕まって面会にきてくれ
た…泣きながらちゃんと食べてる…?寝れてる…?洋服後でかっとくね…?泣きながらゆ
うかぁさんをみて思わず涙がでてきた。生活がきついのに仕事をやすんでまできてくれ
て、被害者には何回も頭下げて謝るかぁさんを思うと涙がとまらなかった…面会にきてく
れた時今までしてきた事、迷惑かけてきた事。頭下げて謝った。今毎朝弁当作ってくれる
かぁさんありがとう…
で強盗致傷容疑で逮捕された。地元のニュースや新聞にもでた。捕まって面会にきてくれ
た…泣きながらちゃんと食べてる…?寝れてる…?洋服後でかっとくね…?泣きながらゆ
うかぁさんをみて思わず涙がでてきた。生活がきついのに仕事をやすんでまできてくれ
て、被害者には何回も頭下げて謝るかぁさんを思うと涙がとまらなかった…面会にきてく
れた時今までしてきた事、迷惑かけてきた事。頭下げて謝った。今毎朝弁当作ってくれる
かぁさんありがとう…
posted at 2012/07/22 0:08:29
lastupdate at 2012/07/30 20:12:17
【修正】
2012/07/24
[泣ける話]
感動とか言うよりも、未だに思い出す度に
後悔の気持ちでいっぱいになって自分自身が泣けてくる話を一つ…。
多分と〜っても長いです。
長文苦手な方は読み飛ばしてくださいね。
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。
小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
--------------------------------------------------------------------------
やばい、また涙が出てきた。
でも、今の自分を客観的に見るためにも頑張って続きを書きます。気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。
私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」 継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら錯乱状態になり、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
後悔の気持ちでいっぱいになって自分自身が泣けてくる話を一つ…。
多分と〜っても長いです。
長文苦手な方は読み飛ばしてくださいね。
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。
小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
--------------------------------------------------------------------------
やばい、また涙が出てきた。
でも、今の自分を客観的に見るためにも頑張って続きを書きます。気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。
私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」 継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら錯乱状態になり、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
posted at 2012/07/24 0:01:51
lastupdate at 2012/07/24 0:01:51
【修正】