クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/03/23
事情があって生活保護を受けている母子家庭の知人の子供が
夏休みに法事で東京へ来た。
「おじさんがディズニーランドへ連れてってあげるよ」と言うと
頑なに固辞するので、子供のくせに遠慮するなあと思って理由を訊いたら
「だって高いから」とだけ言うと、その子は下を向いてしまった。
「じゃあおじさんと、明日どこかドライブへ行こう」と次の早朝連れ出した。

首都高から湾岸線、浦安で降りるとTDLの看板があり、その子は
まだきょとんとしていたが、駐車場へ入るあの角を曲がったときの
その子の驚きと感動の歓声が忘れられない

持ちきれないくらいのおみやげを買ってやり、
5万くらい使ったが、馬にぶち込むよりはいい使い方だと思った。
posted at 2012/03/23 15:28:17
lastupdate at 2012/03/23 15:28:17
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2012/03/20
17 名前: 恋愛とは関係ないんですが・・・ 投稿日: 2000/03/06(月) 16:09
祖母がボケ始めた頃、海外在住だった私は一時帰国して、和歌山まで
遊びに行きました。二年程会っていなかったのですが、以前はしゃきっと
していて厳しかった祖母が、仏さんみたいな顔で笑いかけてくれて、電子
ジャーに残っていたご飯でおにぎりをつくってくれました。「食え、食え」
と言って。
祖母と同居していて、一緒にいた従弟が「おばあちゃん、そのご飯、もう
古いんちゃうかー」と明るく言って、私の方をちら、と見て「食わんでええ」
と小声で言いました。でも私はどうしても食べたかった。だから、海苔も
塩味も何もついていない、ご飯を丸めただけのおにぎりを、口にほおばり
ました。電子ジャーの中に何日残っていたのか知りませんが、ご飯はぽろ
ぽろで変色しており、確かにおいしくなかったんですが・・・。
でも祖母が嬉しそうに私のことを見ていてくれたので、こぼさないように
頑張って噛みました。
それが祖母とのこの世での別れになりました。だから今でも、電子ジャーに
残ってしまって、ちょっと古くなったご飯を見るたびに涙がでそうに
なります。ぽろぽろのご飯の舌触りも、絶対に忘れないと思います。

posted at 2012/03/20 19:15:39
lastupdate at 2012/03/20 19:15:39
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537 名前: にゃん 投稿日: 2000/05/08(月) 21:52
おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて、居場所のわからなかった母に、
祖母の葬式の時、23年振りで、顔をあわせました。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。

その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をして、お酒を飲んで、
はじめはあたりさわりのない話しをしてましたが、
だんだん、「何故いなくなったのか?」という話しになりました。
母はたんたんと話します。
私も、母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら、
聞きました。

帰る時、「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」と、
言ったので、私は「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って」と言いました。
母は、「そんなんで、ええんか」と笑いながら作ってくれました。

帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、「気分悪いんか?」と
聞かはりました。私は、
「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです」と、
泣き笑いしながら、運転手さんに、今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。
「よかったな、よかったな」と鼻水まですすってました。

家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、
元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。

posted at 2012/03/20 19:14:02
lastupdate at 2012/03/24 12:07:04
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2012/03/19
ホームヘルパー養成講座に通っている知人が、講義で聴いた話です。

あるグループホームに入所していた認知症のおじいさんが

自殺をほのめかす言葉を残して、外出しました。

後を追った介護士。

引き留めても感情が高ぶるだけなので、雑談をしながら一緒に歩きました。

歩道橋の上で「ここがいいか」というおじいさんに

「いや、もっと他の場所がいいですよ」。

ビルの屋上に来ると「もっといい場所を探しましょうよ」。

そのうちに、おじいさんは当初の目的を忘れ、介護士と散歩している気分になっていきました。

夕暮れ近く、

おなかがすいたおじいさんは、

目に付いたハンバーガーショップに入りました。

注文をして、

レジの女性に「いくらだ」とポケットから取り出したのは、

くしゃくしゃのティッシュペーパー。

介護士は一瞬、青ざめました。

他人から間違いを指摘されると、

認知症の人は逆上して不安定になることがよくあるからです。

でも、レジの若い女性は落ち着いて、


笑顔でこう答えました。

「申し訳ありません。当店においては現在、

 こちらのお札はご利用できなくなっております」
おじいさんは

「そうか、ここでは、この金は使えんのか」と、

あらためてポケットの小銭を取り出しました。

介護士はすっかり、この店のファンになったそうです。
posted at 2012/03/19 8:22:12
lastupdate at 2012/03/19 8:22:12
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2012/03/14
70年代の初め、私の家族は、関西のとある新興住宅地に引っ越してきた。山を切り開いて造られた町は、自然に溢れ、太陽の光がさんさんと降り注ぎ、経済成長期の中、これほど幸せな環境はなかった。

私は、その町の新しい中学校に入学し、新しい友達が毎日増えていく、楽しい日々を過ごしていた。

2年生の1学期のこと。お昼休みに、私は女の子に呼び出された。
彼女はノートを差し出して、これに日記を書けと言う。
私は、これが何を意味するのかがよく分からなかった。

家に帰ってからノートを開けてみると、彼女からのメッセージと前日の日記が書かれていた。それまで、日記は正月三箇日しか続かず、昼食と夕食のメニューしか書いていなかった私は、困り果てながらも、その日のページを埋めて、翌日、彼女に渡した。70年代、このような交換日記が流行っていた。

今となっては、自分が何を書いていたのか全く覚えていない。テレビとか、友達のこととか、他愛も無い事を書きつづけていたのだと思う。オバQがムーミンに「変身」する漫画とか、駄洒落とか。それぐらいしか書けなかったと思う。

それでも、1日置きに日記を書いては彼女に渡していた。彼女が何を書いていたのかも覚えていない。そして、そんな日々が1ヶ月ほど続いた。

あれは夏休みの1週間前の土曜日だったと思う。学校が終って、友達たちと近くの小川で遊んでいた。

友達と別れた帰り道、「サトウ君」と呼ぶ声がする。
振り向くと交換日記の彼女が、家の前でホースで水をまいていた。彼女は、いたって機嫌が良かった。チョコレートの懸賞でコダックのカメラが当たったというのだ。

1時間ぐらい話したと思う。帰る前、彼女がそのカメラで「写して」と言うので写真を1枚撮った。そして、次ぎの日の日曜日に会うことにしたのである。「約束よ」と彼女は言った。

次ぎの日も暑かった。大汗をかいて公園に自転車で行った。そして彼女が現れるのを待った。しかし、待てども彼女は来なかった。約束したのにと呟きながら、私はひどくがっかりして夕方、家路についた。

月曜日、彼女は学校を休んだ。組の友達に話すと、「デートでふられたんか」と笑われた。デートのつもりは無かった。いけないことをしてしまったのだろうか?裏切られたのだろうか?私は良く分からないまま、腹を立てた。彼女は、期末まで、とうとう学校を休んだままだった。



夏休みに入ると、私は、田舎の親戚の家に預けられることになった。父が急に転勤することになり、準備のために家はどたばたしていた。関西に戻って来たのは、2学期が始まる約1週間前だった。

帰ると、母が「彼女」が大変な病気で入院していてると言う。私は驚いた。

そして、日曜日に市民病院にお見舞いに行くことになった。私は、事の重大さを全く理解していなかった。母と病院に行くと、彼女の母親が待っていた。そして、私に「来てくれてありがとう」と何度も頭を下げるのだ。

彼女は個室にいた。部屋に入ると、ベットに横たわる彼女がいた。彼女は、病の為に疲れ果て、もうぼろぼろだった。まだ子供だった私は、驚き、恐怖のあまり、走って逃げたのである。大きな病院の中を走り抜け、玄関の外で震えていた。

すると、彼女の母親がやってきて私の手を取り、「待って、お願いだから。ちょっとでいいから、そばにいてやって」と言う。そこへ私の母が来て、いやがる私を無理矢理、彼女の病室まで引っ張って行ったのある。「ちゃんと優しい言葉をかけてあげるのよ」と言われ、私は、彼女のベットの横の椅子に座らされた。

一体、どのぐらい病室にいたのかは覚えていない。

それから数週間後、私の家族はイギリスに引っ越すことになってしまった。イギリスでは、現地の中学、高校に通い、大学を卒業した。日本を忘れ、日本語も忘れ、ロンドンでイギリス人と共に働いていた。イギリスでの生活は12年の月日を数えた。



イギリスに行ったのは父の都合だったが、今度は私が、日本に転勤することになった。そして、また関西に戻って来たのである。帰国して1年ぐらいして、2年2組の友達と、再会することになった。

しかし、12年もイギリスで過ごした為か、昔の友達と会うと、もう話題が全く合わなかった。でも、彼女のことを聞くのは、忘れなかった。

 「なんや、サトウ君、知らなかったんや。」

その時、彼女が、私が転校した約1ヶ月後に亡くなったことを始めて知ったのである。2年2組は、私が引っ越した直後に彼女が死に、その後はクラスから笑顔がぱったりと見られなくなってしまったそうだ。

友人たちと会って数ヶ月後、私は、私がかつて住んでいた町に戻っていた。そして、彼女の家の前で立ち止まっていた。ベルを押すと、「はーい」という声が聞こえ、まもなく彼女の母親が出てきた。

私は、何かを言おうとした。でも、何を言っていいのか分からなかった。そして、「すいませんでした」と一言だけ言うと、逃げ出してしまったのである。

「サトウ君でしょ。待って、お願いだから。」

13年も過ぎているのに、彼女の家に始めて入ると、70年代当時の面影があった。彼女の母親は、冷たいジュースを勧め、本棚にあった10冊のアルバムを出してきた。そして、彼女が亡くなるまでの、ことの経緯を話しくれた。

あの日曜日の約束の日、彼女は朝から微熱があり、気分が優れなかったのに、これから出かけると言い出した。寝てなさいと言う母親と娘は大喧嘩となり、彼女は、飛び出していった。

ところが、10分もしない内に近所の人が駆けつけてきて、彼女が路上で倒れていると伝えた。暑さの中、失神している彼女を背負って家に連れ帰り、救急車を呼んだ。最初は原因がわからず、病状はどんどん悪くなっていった。

入院中、彼女はひどくふさぎこんでいたのだが、時々、「勉強用に」と持ってきたノートを見ながら、くすくすと笑う彼女に、母親も最初はそれが何か気がつかなかったらしい。病状が悪化して、始終眠る彼女の枕もとのノートを手にとって始めて、それが彼女と私が書き綴った交換日記だったことを発見したのだ。


彼女の母親は私の母親に会いに行き、娘の病状を説明した。それが、私が田舎から戻ってくる数日前だったのである。

「あの時、サトウ君が『がんばってね』と言ってくれたので、その後、ちょっとは回復して、後数日しかないと言われていたのに1ヶ月半も持ったのよ。」

アルバムを開けると、みんなから愛され、大切にされて育った彼女の写真が、ページを捲るごとに見られた。そして、最後のページには、あの土曜日に私が写した彼女の笑顔が飾られていた。

 「あの交換日記はね、娘が天国に持って行ったわ。」

大粒の涙が止まらなかった。

あれからさらに13年。私は、骨髄バンクへのドナー登録のために秋葉原の献血センターに行った。ひどく寒い日だった。採血を済まし、10ccの私の血がトレイに置かれているのをじっと見つめながら、ようやく、生きている意味が分かったような気がした。
posted at 2012/03/14 22:45:05
lastupdate at 2012/03/14 22:45:05
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NHKスペシャル「遺伝子」を見た。

その中で、生命の設計図である遺伝子の中には死というものがあらかじめプログラムされているということが述べられたところは圧巻だった。

はるか遠い昔、生命の進化の課程で、遺伝子の新しい組み合わせの可能性と引換えに、細胞分裂の回数が限定されることとなった、つまり

生命が進化するため、生物は限られた寿命というものを選び取ったのだ、という説明には、驚きを禁じ得なかった。


それは、「生きているということはとりもなおさず、老いることであり、病むことであり、そして必然的に死に導かれるものなのだ」ということ。

これは2500年前にお釈迦様が言われた事である。同じことが最先端の生命科学の言葉によって語られたのであった。

日本列島という陸地の輪郭は、陸地自身ではなく、海によって決定される。

同様に、生の姿は生自体ではなくて、死によって初めてくっきりとその輪郭を描き出されるものなのではないか、そんなことが思われる。

もしも死がなかったら、生まれたばかりの赤ん坊をあんなに優しく大切に抱こうとするだろうか。

我々のいのちが死を前提にしているからこそ、やさしさや慈悲というものが、心の奥底から湧きだしてくるものであるに違いない。

草野榮應さんのエッセイから
posted at 2012/03/14 18:44:29
lastupdate at 2012/03/14 18:44:29
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父さんが亡くなって一年半が経ったんだね・・・
月日が経つのはあっという間だね。

お父さんが体調の変化を感じた時には
もう病気はかなり進行してたね。
なんでもっと早く気がついてあげなかったんだろう。
この一年半自分を責め続けたよ。

最初に診てもらった個人病院では「糖尿病」と
診断されて、一生懸命食事療法と運動をしていたね。
でも症状は悪化していくばかりだった。
二度目に訪れた大学病院ですい臓がんだと
わかったんだ。
「どうして誤診したの!」って
始めの病院の医者を恨んだよ。


時間が経っていくと、お父さんの声が、ぬくもりが、
だんだんとなくなっていく。
もっと一緒に時間を過ごしたかった。

でも、もうたちなおらないと。
子供も生まれたから。
posted at 2012/03/14 2:00:25
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2012/03/02
私の妻はブランド好きだ。
特にルイ・ヴィトンには目がない。まだアメリカ在住の頃、妻と一緒に地下鉄に乗っていたら、妻が私に目配せをしてこう言ったことがある。

妻:「あそこの白人女性が持ってるヴィトンのバッグね。あれ、ニセモノよ。」

私:「ええっ!どう見ても本物にしか見えないけど、どうして分かるの?」

妻:「ホンモノにあんな形のストラップのものなんてないわよ。ニセモノでもそんなに持ちたいのかしらね?」

私:「さすが、買いもしないのにしょっちゅうカタログをチェックしているだけのことはあるな。」


時は移って、前回のバンコク出張の時の話である。
日本からの同行客がカバンを見たいというので、現地の人間にシロム・ビレッジのカバン屋へ連れていってもらった。店に入ってびっくりした。

ニセ・ブランドのオンパレードだ。
しかも、中国の各都市でよく見かけるチャチなニセモノではなく、作りがホンモノっぽい。胡散臭そうな店主のオバハンによれば、中国製やベトナム製はダメで、韓国製のニセモノの水準がピカ一であり、その店はもっぱら韓国からの輸入のみとのことだった。

オバハンは、どこで手に入れたのかホンモノのヴィトンのカタログを広げるや、「さぁ、どれにするか?」と怪しげな日本語で迫ってきた。どうやら品揃えに物凄い自信を持っているようだ。


私の中にふとイタズラ心が芽生えた。
「妻は果たしてこれだけ精巧にできたニセモノを見抜くことができるだろうか?」あれこれ物色した挙句に結局、楕円の筒状のハンドバッグ(カタログ表示価格1100ドル)を4000バーツ(1万円ちょっと)で買った。ホンモノの10分の1の値段というわけだ。

帰宅するや、早速妻にバッグを渡し様子を伺った。
ニセモノはさすがにヴィトンの袋に包装してはくれないから、「袋はかさばるので現地で処分した」と言い訳した。

果たして妻は飛び上がって喜び、こんな高いものを一体どういう風の吹き回しか、幾らだった、などと矢継ぎ早に問うた。ニセモノと疑っているそぶりは全くない。子供のように喜ぶ妻を見ていると実はニセモノなんだと切り出すタイミングを完全に失ってしまった。


結局そのままその日の夜を迎え、いつもとは全く異なる気合の入ったサービスを受けた。そんなにハッスルされては、罪悪感は増すばかりだ。

私は面と向かって言いにくいことは、携帯メールで妻に伝えることにしている。

私:「実は昨日の1100ドルのヴィトン・バッグだけど、本当はニセモノです。ゴメン。」

1時間ほどして妻から返事があった。

妻:「幾らだったの?」

すかさず返事を打った。

私:「4千バーツ。」

妻からまた返答が来た。

妻:「ニセモノって見抜けなかったんだから、貴方が白状さえしなかったら、このバッグは私にとってホンモノであり続けたのよね。ホンモノって思い続けたかった。。。。」

「おおっ!何てひねくれたヘソの曲げ方をするのだ。」と私は感心したが、その旨メールで打つことはなかった(当然である)。


大変なのはそれからである。
私と外出するたびに、文字通り毎回、妻はニセ・ヴィトンのバッグを持って行くのである。近所のスタバにコーヒーを飲みに行くだけでも必ず、である。

そう、私はもうとっくに観念している。
次の海外出張でホンモノを買わざるを得ない。海外出張の土産など、空港で買う化粧品で済んでいたのに、くだらないイタズラ心を抱いたがために高いツケを払うことになったのだ ”

posted at 2012/03/14 21:38:10
lastupdate at 2012/03/14 23:13:06
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2012/02/25

恋とは一種の病気である。
それはとても苦しくてせつなくて、、、、
でも世界で一番美しい病だ。

ただしそいつはいつも、まったく何の予兆もなくいきなりやってくる。そうやって恋に落ちるたびに、僕はいつもボロボロになってしまう。


ぼくは女性誌が 「おしゃれな恋がしたい」 だの、またそれと似たような男性誌が「 今年の夏こそホントの恋がしたい」 だの書いてあるものを目にするだけで
喉元までゲロがこみあげてくる。

「わかっている女」 や、いまどきの 「 モテル男 」 になりたければなればよい。おしゃれな恋 がしたければ雑誌の「ここいちばんのいい女、の演出法」なんぞを駆使して勝手にすればよい。飽きがきたら「傷つかないためのセリフ100選」を使えばよいだろう。


ぼくは4年前、天上的な恋をしていた。
それは決して許されず、そして叶うはずのないものであった。

恋というものは異様なまでに人を高みにおしあげる。
それはとても苦しくてせつなくて、、、
そしてこの世でいちばん美しくステキな病気だ。

いまだからいえるが、ぼくは恋愛なんてものは2度とごめんだ。ただし、恋愛というものはするものではなくかかるものであるのでこればっかりはどうしようも出来ない。どうしても止めることができないのだ。


らも氏のエッセイから
posted at 2012/03/14 16:34:11
lastupdate at 2012/03/14 16:34:11
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2012/02/21
音楽家チャップリン


映画界で成功を収める前、チャップリンがチェロやバイオリストを目指していたということは、あまり知られていない。

毎日6時間にも及ぶほどの練習を積み重ね、結果名手とはなれず、音楽への道を断念する。しかし、それが映画を作るという才能が開花させる第一歩となった。

彼の音楽家としての才能は映画の中で開花する。どのチャップリンの映画にも、彼の作った音楽がメランコリックに生き生きと奏でられている。チャップリンはこう語る。


「僕はエレガントでロマンティックな曲を作ろうとしたのです。僕のコメディに、僕の演じる放浪者のキャラクターとは対照的な雰囲気を与えたかったのです。

音楽は、優雅さと魅力との対比であるべきで、感情を表現しなければならない。さらには、感情表現のない作品は不完全なものでしかないのです。

ミュージシャンたちは僕を前に専門用語で大討論会を始めようとしたのですが、僕は音楽の素人のように彼をさえぎってこういってやったものです。音楽をそんな言葉で表現しようとしても、それは無駄なことですよ・・・・・」





ライムライトあらすじ(ねたばれ)


かつてのスター喜劇役者のカルベロ。
いまでは年老いて、誰も見向きもしなくなってしまった。

彼はいつものように酔ってアパートに帰ってきたところ、下の階に住む女性がガス自殺を図っていた。

その女性テリーは、バレリーナだったが原因不明の病により
脚が動かなくなり、働くことも出来ず、家賃も滞納、絶望の末、
自殺を図ったのだった。

見かねたカルベロは、彼女のために大切なバイオリンを質に入れたり、安いギャラでの舞台に立って、彼女を助けようとした。

そして「人生は素晴らしいんだ。大切なのは勇気と想像力なんだよ」
と一生懸命彼女を励ました。
 
しかし、一方でカルベロ自身も昔ほどの喝采を得られず、絶望の淵にたっていた。芸人としての寿命を感じて嘆くカルベロをこんどはテリーが逆に励ました。

その時、テリーは脚が治って歩けることに気づき二人は喜び合う。

舞台に復帰したテリーはカルベロに愛を告白する。だが、テリーがかつて想いを寄せていた作曲家に、愛を告白されていることを知ったカルベロは、1通の手紙を残して失踪する。

そして月日がたちバレリーナとして成功したテリー。やっとカルベロを探し当て、今でも愛していると告げ、彼のために記念公演を計画する。
カルベロ記念公演の当日、場内は満員の観客。

・・・でもそれはテリーが用意したお客だった。

カルベロの数々の熱演で場内は、拍手大喝采、アンコールの渦。
が、アンコールで舞台からカルベロは転落。
彼は、心臓が弱ってもう絶望的な状態だった。

瀕死のカルベロは、テリーのバレエ姿をそばで見たいとテリーが踊っている舞台のそでにベッドを運んでもらう。

そしてカルベロは静かに目を閉じる。
 
それを知らず、カルベロのために舞台でテリーは踊りつづける・・・
posted at 2012/03/14 21:39:04
lastupdate at 2012/03/14 23:10:26
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