クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2010/01/05
14 :大人になった名無しさん :03/12/06 19:19


15年前に逝っちまった。
誕生日に10円玉と四つ葉のクロ-バ-あげたの この間出てきて…
○○の(俺)思ひ出って書いた封筒に入ってた
(/o\)オ-ンオ-ン
甦る記憶。小4位だ。
25 :大人になった名無しさん :04/01/12 21:03


死んだ母が入院する前の日の夕食、何を作ってくれたっけ・・・
もう忘れちゃったよ・なんでだろう・・・
これが最後の夕食だって思いながら食べたのに
あの日、末期がんだって知ったんだよな・・・
26 :大人になった名無しさん :04/01/12 22:47
突然、弁当作って近所の公園に連れっててくれた。
いつも来てた所だから何でだろ、って思ったけど。

「友達はみんな家族で旅行や遊園地に行ってるよね。家にお金が無くて
連れてってやれなくて本当にごめんね。今はこんな近場でピクニックしか
できないの。ごめんね。」と弁当食ってる時に言ってたの思い出した…。

何か自分の母親の話なのに泣けてきた…。
俺、マジでそんな事何も気にしてなかったんだよ、母さん…。


28 :大人になった名無しさん :04/07/27 04:28


うちの母はわがままで、天然バカで、だらしなくて、すごく嫌いだった。
反抗期なんかとっくに過ぎた高3の頃でも本気で、
ママがいなければと思ってた。
お母さんってすごいよねって尊敬できるような母親が欲しかった。

去年、実家に帰った時に大喧嘩をした。
私が必死で働いて買ったプレゼントを「安物でしょ」と言って笑ったから。
傷つけようとして言ったんじゃない。天然なんだ。
そう思ったけど、わかってた分、頭にきた。
私が少し怒鳴ったらママもキレて
部屋に閉じこもってご飯も用意しなかった。
私が話し掛けても見向きもしないので、メールだけ入れて
言葉も交わさないまま、私は東京に戻った。

2日して、メールがきた。

「悲しい思いをさせてごめん。あなたがママを嫌いでも、あなたは
ママたちの初めての子供だから、ママは可愛くて仕方ありません。
だから、少しくらいはママのこともわかってね。」

今は、そのバカぶりも笑って過ごせるようになりました。
ママごめんね。



36 :大人になった名無しさん :04/04/08 20:47


数年前、母が若い頃使っていた化粧品やら香水の入ったダンボールがあり、
その中にいくつか手帳のような物も混じってたのを発見した。

その頃の私は母に暴言浴びせたりするような反抗期真っ只中で、
もっぱら喧嘩の最中だったりして、
「ちきしょー見てやるっ!」とか思い勝手に見た。

それは、私の生まれる前・生まれた後の事をつずった
日記のようなものだった。
私は赤ちゃんの頃・幼い頃は体も弱かったため、その事についても
詳しく書かれてて・・・
いつ熱が出たとか、嘔吐したとか、医者に言われたこととか。
また、私はイジメられっ子だったので、そういった事についても書かれてた。

私が今まで知らなかった母の苦労や、優しさを感じて、
思わず顔をくしゃくしゃにして泣いてしまった。
わがままな事ばかり言ってる今の自分が愚かだなって思ったよ。
ケンカもたまにはするけど、これからも元気でいてほしい。



37 :大人になった名無しさん :04/05/09 21:57


生まれた時から心臓に欠陥があった私。
色々苦労させましたね、お母さん。

6回の手術のうち初めての手術の時、長かった入院生活は
お母さんを独り占めできて、ある意味嬉しかったよ。
今でもあの時の事を思い出すと涙が出てくる。
どんなに心配させたかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

病院の裏の芝生で、2人でお弁当を食べたのを憶えてますか?
もうあれから30年以上経ったんですね。
今は年に数回しか会えないお母さん。
いつも私のワガママを聞いてくれて、何でもさせてくれた事に感謝してます。

会うたびに「こっちに住みなよ」と言ってくれるけど、
未だにワガママな私は一人住まいをしていて、
こんな年になってもまだ心配させてごめん。

本当は私もお母さんと一緒に暮らしたいよ。
朝、目が覚めた時、お母さんがいてくれたらどんなに嬉しいか・・・。
近々、また手術を受けることになるかも知れないけれど
その時には一緒に暮らそうな。
そっちで仕事見つけて、今度こそ恩返しするからな。
それまではお父さんと元気に暮らしててな。
私が帰るまで待ってて下さい。


39 :大人になった名無しさん :04/05/10 16:05


痴呆の末に亡くなった母の遺品を整理していた。
幼い頃見覚えのある着物、編物の道具。
そういえば着せ替え人形の洋服を編んでくれたりしたっけ。
よくあんな小さな洋服を・・・。
そして古ぼけた大学ノートが数冊。
若い頃の母の日記だった。読み進むうちハッとした。
母は若い頃に子宮の病気をしていた。
「神様。お願いします。子宮を取らないで下さい。
わたしは子どもを産んでみたいのです。
自分の子供にお乳を飲ませて抱いてみたいのです。
だから、どうか神様、赤ちゃんを産ませてください」

そして数年後身ごもった子供がわたしだったのか・・・。

亡くなる少し前には、何かを食べさせてもボロボロとこぼす母に苛立ち
母のオムツを替えるのだって内心めんどうに思っていた自分。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
こんなにも大切に産み育ててくれたのに私は・・・。

古ぼけた写真の中の母は微笑んでいる。
「いいのよ」って言ってくれているんだろうか。
もう一度会いたい。



47 :大人になった名無しさん :04/07/18 17:40


ひとり暮らしのやつら、二ヶ月以内に実家に帰って、
母ちゃんの手料理食って来い。これは命令でつ。



67 :大人になった名無しさん :04/07/18 17:40


お母さん、ありがとう。
小学生の遠足の日、共働きで忙しかったはずなのに
お弁当に文句言ってごめんね。
中学生の試験のとき夜食作ってくれたのに、
邪魔するなよとか言ってごめんね。
大学受験のとき、資金繰りで忙しいときなのに
分かってあげられなくてごめんね。
大学受験に失敗したのに、優しくしてくれたのはお母さんだけでした。
ありがとう。本当にありがとう。
あなたには一生かかっても返しきれないくらいの恩を受けました。
お母さん、ありがとう。



94 :大人になった名無しさん :04/10/26 23:03:25


母ちゃんは俺が4つの時病気で死んだんだ。
ぼんやりと覚えてる事がひとつ。

公園でいつも遊んでた、夕方になるとみんなの母ちゃんが迎えにくるんだ。
うちの母ちゃんは入院生活が長くて、
どうせ帰っても親父は仕事だし誰もいない。
暗くなってもよく公園にいたな、兄貴が部活終わって
公園の前通って一緒に帰るのが日課だった。

その日も暗くなっても砂場で遊んでた。
そしたら俺を呼ぶ声が聞こえて母ちゃんが息切れしながら歩いてきた。
ママーママーって馬鹿みたいに叫んで走ったよ。
暗い中、ブランコに一緒に乗ろう、って
母ちゃんが俺を膝に乗せてしばらくそうしてた。

その後何日かして病院で死んじまった。
後から親父に聞いたら、自分でも長くない事わかってたらしい。
あの時母ちゃんどんな気持ち抱えてたんだ?
どうしていつも病院にいるの?ってしつこく聞いてごめん。
辛かっただろう。
来年、俺彼女と結婚するよ。
母ちゃんの分も向こうのお袋さん大事にすっから。
長文スマソ。


221 :大人になった名無しさん :04/12/13 15:50


父が逝ってから急速に老いて次第に呆けていった母。
その母の介護にキリキリと目を吊り上げていた自分。
正直しんどかった。自分なりには精一杯だった。

その母が逝ったとき、介護に取られていた時間がすっぽりと空になり
さりとてどうしていいのかわからず空虚に過ごしていた。
一年経った今、色々な事を思い出す。
優しかった笑顔やあたたかかったその手。
大切だった父を亡くしてショックで老いてしまうほどだった母の心を
なぜもっと理解して優しくしてあげられなかったのだろう。
しっかりしろと叱ってばかリいたわたし。

あーあー、もういちど母の作ってくれたご飯が食べたい。
わたしの作るものと味が違うんだよ。もっと優しい味なんだよ。
あー、もう一度でいいから母の笑顔が見たい。
いつだって笑ってくれてたじゃん。わたし怒ってばかりだもん。

あんなにたくさんの優しさで包んで育ててもらって、
わたしの優しさってこんなもんですか?
あんなに大事に育ててもらって、わたしって言う人間はこんなもんですか?

もういちど生まれなおして母に育ててもらいたい。
そしてこんどはもっともっと優しく母を看たい。
わたしの思いがもしも届くならば、こんな娘でごめんなさい。
それでも次に生まれるときもあなたの娘にしてください。
聞こえますか?もう一度会いたい。






47 :大人になった名無しさん :04/07/18 17:40


ひとり暮らしのやつら、二ヶ月以内に実家に帰って、
母ちゃんの手料理食って来い。これは命令でつ。


posted at 2012/03/14 22:47:45
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2009/11/24
158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/30(火) 19:50:44
私の友人の婚約者の話です。

彼は幼い頃に母親を亡くし、父親と祖母と暮らしていました。
彼が17歳の時に、急性骨髄性白血病にかかってしまい、本人すら死を覚悟していましたが、骨髄移植のドナーが運良く見つかり、死のふちから生還しました。

そのときに1人でも多くの人を助けることができたらと医者になることを決意し、猛勉強の末に某国立医科大学を卒業、インターンを経て無事彼が骨髄移植を受けた病院に就職することができました。

その病院で私の友人、彼女もまた医師をしていますが、彼女と出会い、晴れて婚約をしました。彼の祖母が先日亡くなったので、しばらく沈んでいたようですが、日々忙しく働く中で、徐々に持ち直していたようです。



そんなある日、1人の救急患者が運ばれて来ました。
50代後半くらいの女性で交通事故に遭い意識不明の重態だったので、至急家族に連絡が必要だったのですが、身分証明を所持しておりませんでした。

首にかかっていたペンダントが俗に言う、「ロケット」タイプだったらしく、手がかりになればと開けてみたところ、なんと幼い頃の彼の写真が。彼はすぐに父親と連絡を取り、その旨を話すと父親もすぐ病院に駆けつけました。

父親から聞いた事情はこうでした。
もともと彼の祖母をはじめとする親族が父と母の結婚に大反対していたらしく、それを押し切って結婚したものの、彼の母親はものすごい嫌がらせを受け、心身ともに参ってしまったそうです。

母親は不眠症に陥り、睡眠薬が欠かせない状態で自律神経失調症になってしまいました。医師からは環境を変えなければ治りようが無いと言われ、少しの療養のつもりが、結局父親の親族から追い出された形になってしまったのです。

何度も息子に会いに家を訪れる母親を、祖母が知り合いの医者を使って精神異常との診断書を書かせ、それを裁判所に持ち込み、息子との接触を許されない状況にされてしまいました。

そんな状態でしたが、母親が唯一彼と接触した日があったそうです。急性骨髄性白血病にかかったとき、親族で誰一人として型が一致する者がおらず、苦肉の策で母親を呼び出し検査したところ、見事に一致することがわかったのです。

もちろん母親は何の見返りも求めませんでしたが、ただ1つ、夢にまで見た息子とどうしても話がしたいと申し出たところ、手術のあと眠っている間に顔を見るのはいいと言われ、もちろん彼は覚えてはいませんが、実際20分ほどだけ同じ病室にいたそうです。

彼も大好きだった遠い記憶にある優しい母が、夢にまで見た母親が目の前にいて彼女は重態だということ、親族一同が母親にした仕打ち、ものすごい感情と闘いながら必死で治療を続けました。

しかし2日間の集中治療の甲斐も虚しく、今日か明日かという状態になり、病院長から「是非お母さんと一緒にいてあげてください」と言われ、彼はずっとお母さんの傍に座り、一晩中手を握っていたそうです。そして翌朝、お母さんは息を引き取ったそうです。事情を知っている同僚や看護婦もみんな涙したそうです。

後日、お母さんのアパートを友人の婚約者と訪ねたところ、たった一人で暮らしており、とても質素な暮らしぶりだったそうです。

部屋には彼の幼い頃の写真がたくさん飾られていて、彼が手にすることのなかった、親族が送り返した大量の手紙、クリスマスプレゼント、誕生日プレゼントなどが押入れに残っており、通帳の表表紙には彼の名前がサインペンで書いてあって、預金額はその質素な暮らしぶりからは考えられないほどの金額でした。

最後に預金した日がお母さんが交通事故に遭った1日前の日付けで、彼と婚約者はその場にうずくまって泣きつづけたそうです。

本当に残念なのが、彼の父親が手紙を送っており、彼が結婚を予定していること、祖母も亡くなり、今さらだが息子のために結婚式参加してもらえないかという内容の手紙を送っていたにもかかわらず、母親は受け取らないままに亡くなってしまったことでした。

約30年近く夢にまで見たかけがえのない息子を抱きしめることができただろうに・・・・



長くなってすみません。
みなさん、お母さんを大切にしてあげてください。一度でいいから「ありがとう」と声をかけてあげてください。

posted at 2012/03/14 22:50:31
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2009/11/08
69 名前: 名無しの心子知らず 投稿日: 02/03/09 21:28
私の両親は自営業。
いつも店で仕事をしていてあんまり遊んでもらえなかった。
子供の頃は解ってはいたけどちょっとさみしかった。
そんな私が子供を産んだ。
母は1日しかない休みの日に
毎週私を手伝いに来てくれる。
「大変だろうからいいよ」と言うと、
「いいの。私はあんた(私の事)に責任がある。親だから。
孫はどうでもいい。
子供に対して責任があるの。
あんたも自分の子供に責任があるんだよ」と言われた。
母の愛ってこういうものかと感じ、
自分も親なんだ・・・とちょっと泣いた。


70 名前: 名無しの心子知らず 投稿日: 02/03/09 21:43
>69
うちの母も煮たような事言ってました。
産後の手伝いをするのは、孫がかわいいんんじゃなくて、
お前(私)がかわいいからしてるんだって。
わかっている事でも、口に出して言ってもらうと嬉しい。
おかあさん^^

81 名前: 名無しの心子知らず 投稿日: 02/03/11 15:56
子供の入院関係の話なんですが。

うちの子は1歳半の時に、ある手術をしました。
そのオペ出しの時、
普通ならストレッチャーに乗せて行くんだけど
まだ小さいので私が抱いて手術室の前まで行きました。
そして手術室の看護婦さんに渡そうとすると
何かを察しているのか、しがみついてきました。
それでも看護婦さんに抱かれて手術室に入っていく息子。
閉まる自動ドアから「抱っこして」のポーズの
息子をただ見つめていました。
立っていられなかった。


84 名前: 名無しの心子知らず 投稿日: 02/03/11 16:16
初めてのあかちゃんに無我夢中だった。
ろくに眠らず、夜鳴きもひどかった娘。
へとへとに疲れはてて、抱っこでゆすりながら
「あんたはママを苦しめたいの?ほんとにひどい子だ」と
悪態をついた日々。
赤ん坊の気持ちなんて、全然わからない。
母親の自信なんて、みじんもない。ただ、もがくだけの日々。

あれから数年たって、娘は五歳になった。
「あのね、ママ」(もじもじ)
「なぁに」


「あたしね、ママのこと、生まれたときからすきだったの」

あの頃の私が一番聞きたかった言葉。
やっと聞けた。こっそり台所で泣いた。


105 名前: 名無しの心子知らず 投稿日: 02/03/12 02:10
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、
どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。

ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」 こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。

「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ〜」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。

娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。
posted at 2012/03/14 12:20:29
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2009/02/22
糖尿病を患ってて、目が見えなかった、ばあちゃん。

一番家が近くて、よく遊びに来る私を随分可愛がってくれた。
思えば、小さい頃の記憶は殆どばあちゃんと一緒に居た気がする。

一緒に買い物行ったり、散歩したり。だけど、ばぁちゃんの体が弱っているのは子供だった私でもわかった。

高校に入ると、友達と遊ぶほうが多くなっていて、ばあちゃんの家に行くことが少なくなっていた。

たまに行くと、「さぁちゃんかい?」と弱々しい声で反応してた。
もう、声だけじゃ、私だってわからなくなっていた。
「そうだよ、さぁちゃんだよ。ばーちゃん、散歩行こうかー?」
手を取って、散歩に行ったけれど、もう昔歩いた場所まで、ばぁちゃんは歩けなくなっていた。

それから、あまりばあちゃんの家に行くことは無くなってた。

暫くして、母さんから「ばぁちゃんがボケちゃったよ」と聞いた。
誰が誰だか、わからないんだって。 私のことも、わからなくなってるらしい。なんとなく、覚悟は出来ていた。けれど、悲しかった。


それから。半年くらい過ぎた頃。
ばぁちゃんが死んだっていう報せが届いた。
泣くこともなく、通夜、葬式が終わった。

葬式が済んだあと、私は叔父に呼び出された。
叔父はばぁちゃん達と最後まで暮らしていた人だ。

「箪笥の中にな、『さぁちゃんの』っていう封筒が入ってたんだよ。」
そう言って、私に封筒を手渡した。

ばぁちゃんの字で、"さぁちゃんの"って書いてあった。中身は、通帳だった。私名義の。二十万ほどの預金が入っていた。働いてないばぁちゃんが、こつこつ貯めたお金。

そういえば、昔、ばあちゃんが話していた。
「さぁちゃんが結婚するときのために、ばーちゃん頑張ってるからね。」
「だから、ばぁちゃんにも孫抱かせてね。」

その夜、初めて泣いた。

ばぁちゃん。
あれから5年も経っちゃったけど、さぁちゃん、来年結婚するよ。
孫抱かせてやれなくてごめんね。

でも、喜んでくれるよね。
posted at 2012/03/14 11:38:47
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2009/01/26
649 :大人の名無しさん :04/05/16 18:21 ID:aQPXgC2a

初めて彼女にあったのは、内定式のとき。同期だった。
聡明を絵に書いたような人。学生時代に書いた論文かなん
かが賞を取ったこともあるらしく、期待の新人ということだった。

ただ、ちょっときつめ&変わった人で、やることすべてパーフェ
クトだし、自分のことはなんにも話さないので、宇宙人ではない
かとの噂もあった。

まあ美人と言えば美人なんだけど、洋服とかおしゃれに気を使
わないようだったし、クソまじめだし、お高くとまってるというより
男嫌いみたいだった。近寄る男はいなかった。
おいらも、なんかちょっと嫌いだった。

彼女とは、偶然同じ部署に配属になった。
それまで出会ったどんな女の人とも違うので、からかって反応
を楽しむようになった。はじめは、すごく嫌がっていた彼女だっ
たが、半年も経つと馴れてきたのか、そのころおいらが結婚し
たんで安心したのか、少しづつ相手をしてくれるようになった。



650 :649 :04/05/16 18:22 ID:aQPXgC2a

その後、ちょっとだけ仲良しになって、愚痴を言い合ったりする
ようにはなったが、相変わらず自分のことは、何にも話さない。
休日何をしているかとか、家族のことはもちろん、本人のことも、
例えば誕生日なんかも、何年間か知らなかった。

ある日、ある試験の申し込み書類の書き方を聞いたら、自分
の書類をもって来て見せてくれた。そこに、生年月日が書いて
あった。なんと、その日が誕生日だった。

今日はデートかなぁ?などといいつつ、とりあえず、昼休みに
食べたチョコエッグに入ってたカメを誕生日プレゼントと言って
渡した。爬虫類大好きと言って子供みたいに喜んでいたのが
印象的だった。変わってるなぁと思った。

確かに変わった人で、いまどき携帯は大嫌いとかで、持ってな
かった。写真を撮られれるのも大嫌いだった。カメラ付き携帯で
飲み会のとき撮影したら、すごく怒って、しばらく口をきいてくれ
なかったこともあった。無理やり一緒にプリクラ撮ったときは、
悪用されるといやだからと言って、シートごと全部持っていって
しまった。



651 :649 :04/05/16 18:23 ID:aQPXgC2a

彼女は、がんばりやだった。もともと才能もあったし、がんばる
もんだから、どんどん出世していった。それにほとんど遊ぶこ
ともなく、仕事がおわるとまっすぐ家に帰っていた。そんなに、
お金ためてどうすんのー?お父さんの借金でも返ししてんの?
などとからかった。

そのころには、彼女のことがとても好きになってしまっていた。
でも、おいらはもう子持ちなので、表に出さないようにぐっとこら
えていた。ただ、彼女の周りをうろちょろして、愚痴の聞き役や、
遅くなったときのタクシー代わりをしていた。でも、プライベート
な関係は一切無かったし、変な噂にならないように気を配った。
同僚は、おいらは彼女の「ぽち」に見えると言っていた。自分も
彼女の「ぽち」という立場が気に入っていた。

そんな関係がしばらく続いた。彼女は、相変わらず独身だった。
彼氏や恋人がいるかどうかは全然分からなかった。ただ、彼女
は、お守りみたいな、小さな袋をいつもバックにつけていた。何か
聞いても、秘密のお守りとしか教えてくれなかった。彼女が仕事
のトラブルで落ち込んでいたとき、彼女のデスクでそのお守りを
ギュッとにぎっていたのを見たことがあった。だから、勝手に遠く
にいる彼氏からもらったのかな?などと思っていた。



652 :649 :04/05/16 18:23 ID:aQPXgC2a

ある日、海外出張からの帰り、成田で携帯の電源を入れた
とたんに同僚から電話があった。彼女が亡くなったと言わ
れたとき。全身の力が抜けた。みみの奥がキーンと鳴った
のを覚えている。交通事故だった。事故直後は、意識もあり、
たいしたことはないと思われたらしいが、内臓からの出血が
あり、急変したとのことだった。

現実のこととは思えずに、なぜかあまり、涙もでてこなかった。
職場の何人かで、葬儀の手伝いをした。そのとき初めて知っ
のだが、母子家庭だった。お姉さんもいるが、施設に入って
いるとこのことだった。彼女が大黒柱として家族を支えていた
のだ。彼女を軽率にからかったりしたこと恥じた。とても申し
訳なくて気が狂いそうだった。

葬儀の後、帰ろうとしていると、彼女のお母さんに呼び止めら
れた。渡したいものがあるから彼女の実家にあとで一緒に来
てほしいと言われた。貸していた本のことかな?と思いつつ
彼女の母親と実家に向かった。

母親は、道すがら、彼女は大好きだった父親が出て行ってから
男の人が嫌いになったこと、誰にも頼らないで自分の力で生き
ていこうと誓ったこと、土日はあまり健康でない母親と、施設の
姉の世話をしていたことを話してくれた。自分の子供とは思えな
いほどがんばりやだったと。



653 :649 :04/05/16 18:24 ID:aQPXgC2a
家に着くと、彼女の部屋に案内された。きれいに片付いていた、
というより女性の部屋とは思えないくらい何も無かった。ただ、
専門書とノートがたくさんあった。母親は、彼女がいつもおいら
の話を楽しそうにしていたこと、おいらのことが大好きだったけど、
おいらの子供たちを自分のように悲しませることになるといけな
いと思い黙っていたこと、彼女が意識を失う直前に、おいらに会
いたいと言っていたことを話してくれた。机のすみにおいらと写っ
たプリクラが貼ってあった。声を出して泣いたのは、大人になっ
てから初めてだった。

帰るとき、彼女が亡くなったとき身につけていたネックレスと、
いつも持ち歩いていたお守りを形見にもらった。そばにおいて
やって下さい。と言われた。ネックレスは母親が就職記念にあ
げたものだった。ただ、お守りのほうはどう手に入れたか分か
らないということで受け取るのはちょっと気が引けた。
でも、彼女がとても大切そうににしていたのを知っていたので、
受け取ることにした。お守りの中を開けてみようとも思ったが、
やめた。

それからすぐ転職をした。一年後、ようやく少し落ち着いた。
形見のお守りは、いつも彼女がしていたようにかばんにつけて
持ち歩いていた。先日、職場の女の子が、
「これ前から気になってたんですけど、何が入ってるんですか?」
といい、かばんのお守りを開けてしまった。とめる間もなかった。
というより、そういったときはもう中身を取り出していた。彼女は、
突然、なにこれー?といって大笑いを始めた。

お守りの中には、チョコエッグのカメが入っていた。

おいらは、もう、職場にいることも忘れ、ただただ泣き続けた。
posted at 2012/03/14 22:47:07
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