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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。
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2012/07/14
[泣ける話]
私には、お母さんが二人いた。
一人は、私に生きるチャンスを与えてくれた。
もう一人は……
私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。
私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。
生みの親より育ての親…なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒り
と、馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いてい
た。
翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。
そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。
その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、口もきか
なくなってしまった。なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。
それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙を
差し出してきた。が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。
それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、私はろく
すっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。
・・・翌日、母は帰らぬ人となった。
居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。
即死だった。
あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばでぼう然と
していた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。
昨日の手紙であった。
そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。
「千夏ちゃんへ
17年間騙していてごめんなさい。お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、あ
なたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。あなたの気持
ち、とてもよくわかる。だってお母さん、偽者だったんだもんね…。でもね、お母さん、
あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。千夏が成人しても、旦
那さんができてもずーっと…」
泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。
そして最後に震える字でこうあった。
「…だから、、、また「お母さん」って呼んでね。」
私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。
人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。
「お母さん…」
一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。
一人は、私に生きるチャンスを与えてくれた。
もう一人は……
私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。
私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。
生みの親より育ての親…なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒り
と、馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いてい
た。
翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。
そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。
その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、口もきか
なくなってしまった。なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。
それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙を
差し出してきた。が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。
それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、私はろく
すっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。
・・・翌日、母は帰らぬ人となった。
居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。
即死だった。
あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばでぼう然と
していた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。
昨日の手紙であった。
そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。
「千夏ちゃんへ
17年間騙していてごめんなさい。お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、あ
なたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。あなたの気持
ち、とてもよくわかる。だってお母さん、偽者だったんだもんね…。でもね、お母さん、
あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。千夏が成人しても、旦
那さんができてもずーっと…」
泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。
そして最後に震える字でこうあった。
「…だから、、、また「お母さん」って呼んでね。」
私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。
人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。
「お母さん…」
一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。
posted at 2012/07/14 0:13:08
lastupdate at 2012/07/30 20:12:29
【修正】
2012/07/13
[泣ける話]
私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。
病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。
翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。
チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。
甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。
病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。
翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。
チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。
甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!
posted at 2012/07/13 0:05:10
lastupdate at 2012/07/13 0:05:10
【修正】
2012/07/12
[泣ける話]
俺はいつも同僚のかおちゃんに言っていたんだ
俺はかおちゃんのことが好きだ
それだけで幸せ
かおちゃんが俺のこと好きにならなくても
幸せなんだ
かおちゃんはテレやだから
感情をストレートに出さなかったし
遊びに誘ってもてれて断ってた
だから俺はかおちゃんから
すかれていないと思っていたんだ
そんなかおちゃんは最近新潟の地震にあってなくなった
かおちゃんの部屋からは日記が発見されて
そこに俺のことが書いてあったらしい
私は○○さん(俺)が好き
恥ずかしくて自分の気持ちうを言葉に出せないけど
○○さんがいることで私は幸せ
って。
俺はかおちゃんのことが好きだ
それだけで幸せ
かおちゃんが俺のこと好きにならなくても
幸せなんだ
かおちゃんはテレやだから
感情をストレートに出さなかったし
遊びに誘ってもてれて断ってた
だから俺はかおちゃんから
すかれていないと思っていたんだ
そんなかおちゃんは最近新潟の地震にあってなくなった
かおちゃんの部屋からは日記が発見されて
そこに俺のことが書いてあったらしい
私は○○さん(俺)が好き
恥ずかしくて自分の気持ちうを言葉に出せないけど
○○さんがいることで私は幸せ
って。
posted at 2012/07/12 0:02:31
lastupdate at 2012/07/12 0:02:31
【修正】
2012/07/11
[泣ける話]
あたしのママはあたしを裏切って事がないよね。なんでかな・・・?まぁ、欲しい物とか
買ってって頼んでも今度ねって言って買ってくれなかったりするけどね!!でもさぁ、あ
たしママのこと何回も裏切ってるよね。ピアスあけたり髪染めたり無断外泊したり未成年
なのにタバコ吸ったりするのは、今の時代じゃ普通の事かもしれない。でも普通に考えて
ママはダメな事って考えるでしょ??中学でピアスあけてママにバレタ時ママ、なんでか
な?泣いちゃったね。でもあたしはママ泣かしたくせに次から次へと裏切ってるよね。親
だから子供を裏切らないって事かもしれないけどこんなに最低な事してるのにあたしを裏
切らないママは凄い。っていうかごめんなさい。こんな子に育ったのはママのせいじゃな
いよ!もう、あんたの事は知らない!ってあたしの頬っぺた殴っても次の日には朝早くか
らあたしの為にお弁当作ってくれてありがとう。ママが死んだらどうしようとか何か知ら
ないけど考えちゃう時がある。すごい涙止まらなくて恥ずかしいくらい。ぶっちゃけマザ
コンです!笑”凄い大好きだから涙でるんだな〜・・・なのに親不孝な事してばっか。ご
めんね。ごめんね?もっとまじ・
゚に生きるから!!だからあたしの事嫌いにならないでね??ママありがとう。ありがとう。絶対エステティシャンになってみせるから。
買ってって頼んでも今度ねって言って買ってくれなかったりするけどね!!でもさぁ、あ
たしママのこと何回も裏切ってるよね。ピアスあけたり髪染めたり無断外泊したり未成年
なのにタバコ吸ったりするのは、今の時代じゃ普通の事かもしれない。でも普通に考えて
ママはダメな事って考えるでしょ??中学でピアスあけてママにバレタ時ママ、なんでか
な?泣いちゃったね。でもあたしはママ泣かしたくせに次から次へと裏切ってるよね。親
だから子供を裏切らないって事かもしれないけどこんなに最低な事してるのにあたしを裏
切らないママは凄い。っていうかごめんなさい。こんな子に育ったのはママのせいじゃな
いよ!もう、あんたの事は知らない!ってあたしの頬っぺた殴っても次の日には朝早くか
らあたしの為にお弁当作ってくれてありがとう。ママが死んだらどうしようとか何か知ら
ないけど考えちゃう時がある。すごい涙止まらなくて恥ずかしいくらい。ぶっちゃけマザ
コンです!笑”凄い大好きだから涙でるんだな〜・・・なのに親不孝な事してばっか。ご
めんね。ごめんね?もっとまじ・
゚に生きるから!!だからあたしの事嫌いにならないでね??ママありがとう。ありがとう。絶対エステティシャンになってみせるから。
posted at 2012/07/11 0:01:07
lastupdate at 2012/07/11 0:01:07
【修正】
2012/07/10
[泣ける話]
自動車の免許を取るため、実家を離れて一人静岡にやってきました。そこで、学科教習と技能教習を受けました。
仮免許取得のための修了検定、学科試験を難なくクリアーした私。このまま行けば、卒業検定もらくらくクリアーできるのではないか、そう高をくくっていました。
しかし、結果は不合格。張り詰めていたものが一気に崩れ、涙となって零れ落ちました。
そんな私に、友達になった長峰さんが「泣かなくていいよ。精一杯頑張ったんだから、自分を責めるのはよそう。自分を責めちゃかわいそうだよ。自分を責めるってことは自分の頑張りを否定することになるよ」と言ってくれました。
その瞬間、胸が大きな音を立て、びっくりするくらい大量の涙が溢れてきました。
私が泣き止むまでの間、彼女はずっと私のそばにいて愚痴を聞いてくれました。そのことが嬉しくて涙がどんどん溢れてきました。おかげで10年ぶりに大泣きしてしまいました。
それから2日後。再び受けた卒業検定でようやく合格しました。嬉しくて泣きそうになりました。
今、こうしてメールを書き込んでいる途中、色々なことが思い出されてきて涙が溢れました。彼女の言葉、そしてあの時流した大粒の涙、絶対忘れたくありません。
仮免許取得のための修了検定、学科試験を難なくクリアーした私。このまま行けば、卒業検定もらくらくクリアーできるのではないか、そう高をくくっていました。
しかし、結果は不合格。張り詰めていたものが一気に崩れ、涙となって零れ落ちました。
そんな私に、友達になった長峰さんが「泣かなくていいよ。精一杯頑張ったんだから、自分を責めるのはよそう。自分を責めちゃかわいそうだよ。自分を責めるってことは自分の頑張りを否定することになるよ」と言ってくれました。
その瞬間、胸が大きな音を立て、びっくりするくらい大量の涙が溢れてきました。
私が泣き止むまでの間、彼女はずっと私のそばにいて愚痴を聞いてくれました。そのことが嬉しくて涙がどんどん溢れてきました。おかげで10年ぶりに大泣きしてしまいました。
それから2日後。再び受けた卒業検定でようやく合格しました。嬉しくて泣きそうになりました。
今、こうしてメールを書き込んでいる途中、色々なことが思い出されてきて涙が溢れました。彼女の言葉、そしてあの時流した大粒の涙、絶対忘れたくありません。
posted at 2012/07/10 0:22:45
lastupdate at 2012/07/10 0:22:45
【修正】
2012/07/09
[泣ける話]
じいちゃん。大好きやったじいちゃんが死んでまってからもう1年半やな。
最期は病院でもう喋ることも食べることも何も出来んかったな。学校帰りにいつも病院
寄ったな。
じいちゃんが死んだ日も帰りに病院寄ったな。そしたらな、外は雪が降ってきたな。今で
も忘れんよ、あれはあの年の初雪やったな。
逝ってまう瞬間、私は一緒におれんかったけど、お父さんがいたことがせめてもの救いで
す。
でもな。私ずっと後悔しとることあるんや。じいちゃんは昔から私の事大好きで色んな事
してくれたね。なのに私は何にもしてあげれんかった。
じいちゃんが入院する前日かな。じいちゃんのオムツ変えてやるとき、病気やできちんと
出来んの当たり前なのに私はイライラしてじいちゃんの事たたいてまったな。あれが私が
じいちゃんのオムツを変えた最後やったな。
今考えても悔やんでも悔やみきれんよ。本当に大好きやったよ。なのに本当に何にもして
あげれんかったな。ごめんな。
ずっとずっと大好きやでな。
最期は病院でもう喋ることも食べることも何も出来んかったな。学校帰りにいつも病院
寄ったな。
じいちゃんが死んだ日も帰りに病院寄ったな。そしたらな、外は雪が降ってきたな。今で
も忘れんよ、あれはあの年の初雪やったな。
逝ってまう瞬間、私は一緒におれんかったけど、お父さんがいたことがせめてもの救いで
す。
でもな。私ずっと後悔しとることあるんや。じいちゃんは昔から私の事大好きで色んな事
してくれたね。なのに私は何にもしてあげれんかった。
じいちゃんが入院する前日かな。じいちゃんのオムツ変えてやるとき、病気やできちんと
出来んの当たり前なのに私はイライラしてじいちゃんの事たたいてまったな。あれが私が
じいちゃんのオムツを変えた最後やったな。
今考えても悔やんでも悔やみきれんよ。本当に大好きやったよ。なのに本当に何にもして
あげれんかったな。ごめんな。
ずっとずっと大好きやでな。
posted at 2012/07/09 0:06:51
lastupdate at 2012/07/09 0:06:51
【修正】
2012/07/06
[泣ける話]
私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華や
かとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。友達に見られるのが恥ずかしくて、
毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大
好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそ
り中身を確認した。すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪い
し、とても食べられなかった。家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこ
く尋ねてきた。私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜って
いたので「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく
言ってしまった。母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日
記が出てきた。中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃ
になったけど…喜んでくれると良いな」
何で食べてあげなかったんだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。
かとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。友達に見られるのが恥ずかしくて、
毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大
好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそ
り中身を確認した。すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪い
し、とても食べられなかった。家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこ
く尋ねてきた。私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜って
いたので「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく
言ってしまった。母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日
記が出てきた。中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃ
になったけど…喜んでくれると良いな」
何で食べてあげなかったんだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。
posted at 2012/07/06 0:02:23
lastupdate at 2012/07/30 20:13:31
【修正】
2012/07/05
[泣ける話]
妻が入院してる時、中学生になる姪っ子と一緒にお見舞いに行ったことがあった。
帰りの電車の中、姪っ子のふとした一言に切れてしまい、「うるせーだまってろ!」っと
怒鳴って、ひどく叱ってしまった。勿論そんな風に怒鳴ったことも今まで無かったし、姪っ子も悪気があって言ったんじゃないってことはわかっていた。
姪っ子は妻譲りの気の強い性格で、「そんなに怒んなくてもいいんじゃない」と言って次の駅で降りてしまった。
最悪の気持ちだった。
この先妻はどうなってしまうんだろうという不安や心配・ストレスを姪っ子に向けてしまったことをほんとに後悔した。
なんだか救われない気持ちと辛い気持ちでいっぱいになった。そんな時俺の隣に座っていた全く知らないおばあちゃんが俺に向かって
「さっきのお嬢さんもあなたのつらい気持ちがわかる日がくると思うわ。」っと言ってくれた。
帰りの電車の中、姪っ子のふとした一言に切れてしまい、「うるせーだまってろ!」っと
怒鳴って、ひどく叱ってしまった。勿論そんな風に怒鳴ったことも今まで無かったし、姪っ子も悪気があって言ったんじゃないってことはわかっていた。
姪っ子は妻譲りの気の強い性格で、「そんなに怒んなくてもいいんじゃない」と言って次の駅で降りてしまった。
最悪の気持ちだった。
この先妻はどうなってしまうんだろうという不安や心配・ストレスを姪っ子に向けてしまったことをほんとに後悔した。
なんだか救われない気持ちと辛い気持ちでいっぱいになった。そんな時俺の隣に座っていた全く知らないおばあちゃんが俺に向かって
「さっきのお嬢さんもあなたのつらい気持ちがわかる日がくると思うわ。」っと言ってくれた。
posted at 2012/07/05 0:00:59
lastupdate at 2012/07/05 0:00:59
【修正】
2012/07/03
[泣ける話]
看護学生だった頃
看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。
その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。
あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。
看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。
その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。
あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。
posted at 2012/07/03 0:06:36
lastupdate at 2012/07/03 0:06:36
【修正】
2012/07/02
[泣ける話]
単車の免許を取ってすぐ、当日付き合ってた彼女と江ノ島線の道をバイクでデートした。でも
8月14日23時19分カーブを曲がる時に対向車のトラックと衝突して自分は気を失った。目が覚め
たら病室だった。ベッドの横に自分の母親が泣きながら立っていて、平手で一発殴られた。
ふと自分が事故にあったのだと気が付いて『○○は?』(彼女の名前)と尋ねると事故の事
を教えてくれた。対向車と衝突した時、自分はガードレールを飛び越えて砂浜に着地したらし
い。でも彼女はガードレールとトラックに挟まれ息を引き取ったと知らされた。自分を恨んだ。そ
の日から毎日、病室のベッドで泣いた。2週間が経ちなんとか退院。同時決意した。彼女が
いない人生意味がないって。気が付いたら、貯金はたいて同型のバイクを買った。事故に
あったカーブに夜中の10時を回った頃に着いた。バイクの鼓動と彼女の背中に残る微かな温も
りがあの瞬間を思い出す。気付けば時速138q出てた。走馬燈が頭をよぎる。◯◯ありが
とう。ごめんな。そう言って気付けばガードレールまで80m.........突然エンジンが止まった。ふと前を見ると険しい顔した彼女が両手を広げ立ってた。
ガードレール手前で止まって目を開けたら誰もいなかった。ありがとう。とつぶやいた。
8月14日23時19分カーブを曲がる時に対向車のトラックと衝突して自分は気を失った。目が覚め
たら病室だった。ベッドの横に自分の母親が泣きながら立っていて、平手で一発殴られた。
ふと自分が事故にあったのだと気が付いて『○○は?』(彼女の名前)と尋ねると事故の事
を教えてくれた。対向車と衝突した時、自分はガードレールを飛び越えて砂浜に着地したらし
い。でも彼女はガードレールとトラックに挟まれ息を引き取ったと知らされた。自分を恨んだ。そ
の日から毎日、病室のベッドで泣いた。2週間が経ちなんとか退院。同時決意した。彼女が
いない人生意味がないって。気が付いたら、貯金はたいて同型のバイクを買った。事故に
あったカーブに夜中の10時を回った頃に着いた。バイクの鼓動と彼女の背中に残る微かな温も
りがあの瞬間を思い出す。気付けば時速138q出てた。走馬燈が頭をよぎる。◯◯ありが
とう。ごめんな。そう言って気付けばガードレールまで80m.........突然エンジンが止まった。ふと前を見ると険しい顔した彼女が両手を広げ立ってた。
ガードレール手前で止まって目を開けたら誰もいなかった。ありがとう。とつぶやいた。
posted at 2012/07/02 0:08:44
lastupdate at 2012/07/02 0:08:44
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