クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2011/08/31
318 :おさかなくわえた名無しさん :04/03/01 23:30 ID:kb86uqQs
小さい頃に母が死んだので、兄ちゃんと俺は親父に育てられた。

まあ不器用な人だったから、
素直な兄とは違って、俺はいろいろ親父と衝突した。
それでも兄弟二人、無事に社会人になり、
両方合わせて5人の孫を親父に見せてやれた。

そんな親父がガンで入院。
もう助からないのでモルヒネで痛みを和らげて最後を待つ日々になった。
モルヒネの幻覚作用で訳の分からないことばかり口走る親父を見て、
夢見ながら楽に死ねるのがせめてもの救いかな、
なんて兄ちゃんと話していた。

ある日、俺が付き添ってるとき、急に俺の手を握って真顔になり、
「ちゃんと飯くってるか?風呂入ってるか?病気とかしてないか?」
とか心配し出した。
「ああ、大丈夫だよ」と答えると、手に力を込めて
「父さん、お前のこと分かってやれなくてごめんな」と言った。
それきり、また幻覚の世界に戻っていった。

親父が死んで遺品を整理していたら、
小学校の頃の作文とか通知票とか、社会人になって
初めての給料で買ってあげたネクタイとか、
いろんなものが詰まった衣装ケースが
俺の分と兄ちゃんの分、宝物のように大事にしまってあった。

母が死んでから再婚もせず、好きな釣りもやめて
仕事と子育てに追われるだけの日々を送った親父。
これから孝行してやれたのに。早すぎるよ・・・せつないよ・・・。

450 :おさかなくわえた名無しさん :04/03/05 00:51 ID:T7u2QlWr

5年前、女房が男を作って、4歳の息子を残して家出した。

母親を求めて泣きわめく息子を最初は正直疎ましいと思った。
1週間もすると、二人とも現実を受け入れなきゃならないと
痛感するようになり、そのうちに男どうしの生活もうまく回り始めた。

慣れない家事をやってるうちに、何もかも女房任せにしていた
自分も悪かったかなとか思うようになった。
1年もすると、料理や家事もそれなりに上手くなり、
息子とも最高に仲良くなれた。

突然、女房に雇われたという弁護士から連絡が入った。
俺と正式に離婚して、さらに息子を引き取りたいと言う。
なんでも女房の相手は結構な金持ちらしく、あちらも奥さんとの離婚が
やっと成立したそうだ。
ふざけるなと言う俺に、裁判をすれば親権は100%母親に行くと弁護士は
強気だった。

その夜、風呂に入りながら息子に
「ママがお前と暮らしたいって言ってるけど、どうする?」と聞いてみた。
案の定、息子は目を輝かせながら「いつ?いつ?」とはしゃいだ。
息子が嫌がったら絶対に渡さないと思っていたけど、あの目を見たら、
俺と暮らそうとは言えなかった。

いろんな手続きがあって、息子は(元)女房のところへ行ってしまった。
数週間後、俺の口座に大層な金額が振り込まれていた。
その日に届いた手紙には、息子は新しい父親に懐いている
から、もう会わないで欲しいと書かれていた。

ドブに捨てるような使い方をしてやろうかとも思ったが、
その金には手を付けないことにした。

息子が成長して免許を取ったら、車でも買ってやろう。
それまで俺のことを覚えていてくれるだろうか。

posted at 2012/03/14 21:47:02
lastupdate at 2012/03/14 23:02:42
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2011/08/29
361 名前: Mr.名無しさん 投稿日: 02/07/22 06:13
俺が23歳の頃、就職1年目の冬、俺の誕生日の日のこと。

職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に
「今日は遅くなるよ。 ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、
父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」 と言う。
「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」
と俺が言うと、いつもは 温厚な父が、
「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」
とねばる。
「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。

家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、その父。
食卓にはスーパーで売ってるような鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。

「なんでわざわざ帰らせたの!俺だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。

父は何か言ったと思うが、覚えていない。
母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。

俺は言い過ぎたな、と思った。
でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。
その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。
仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、
「実は お母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめん」とつぶやいた。

呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。
あの誕生日の日のページに
「○男に迷惑をかけてしまった。」とあった。
ワーッと声を出して泣いた。
何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。
夜が明ける頃には 涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。

4,5日して母は死んだ。仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。 父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。 母にとっては最後だったのに、、、。

(親に申し訳ないと思っている人のスレ)
posted at 2012/03/14 21:46:06
lastupdate at 2012/03/14 23:03:21
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2011/08/27
死んでは生き返ってを繰り返し、100万回もの生を受けた猫がいました。猫にはいつも飼い主がいました・・・その数100万人。

皆、猫が死ぬとワンワンと嘆き悲しみましたが、猫自身は一度も泣いたことがありませんでした。

ところが、この猫に見向きもしないものがいました。それは美しい白い猫でした。猫は腹を立てました。そして毎日毎日、白猫に「俺はすごいんだぜ、なんてったって100万回も生きたんだから」と、自慢話をしに行きました。

白猫は気のない相づちを打つばかりでした。今日も猫は「俺はすごいんだぜ」と言いかけて、途中でやめました。

そして「そばにいてもいいかい?」と尋ねました。白猫は「ええ」とだけ言いました。

2匹は常に寄り添うようになり、一緒にいることがなによりも大切に感じるようになりました。

それからかわいい子猫がたくさん生まれ、猫はもう得意の台詞、「俺はすごいんだぜ」を言わなくなりました。いつのまにか自分よりも、白猫や子猫たちのことを大切に思うようになっていました。

やがて子猫達は巣立って行き、白猫は少しお婆さんになりました。猫は、白猫と一緒にいつまでも生きていたいと思いました。

ある日、白猫は猫の隣で、静かに動かなくなっていました。

猫は白猫の亡骸を抱いて、生まれて初めて泣きました。
100万回泣きました。そしてぴたりと泣きやみました。

猫は、白猫の隣で静かに動かなくなっていました。
それから猫は、もう決して生き返りませんでした。

posted at 2012/03/14 20:37:41
lastupdate at 2012/03/14 23:08:29
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2011/08/24
当時私が小学生だったころ。
本が大好きで、家にある、自分が読めそうな本を読み漁っていた。
ある日、何気なく母の本棚を漁っていたら、かわいい表紙の日記を見つけた。

どうやら私が小さかったころの成長記録らしい。
母はこういう細かいことが好きで、よく日記とかつけていた。
私は面白半分で日記を開いてみた。

◎年☆月◇日
今日、○○(私の名前)ちゃんが初めて寝返りをうった。
うつぶせになっていたから、一瞬ヒヤっとしたよ。
でも、寝返りがうてるようになったね!

●年△月□日
今日、○○ちゃんが“あいうえお”を読めた。
すごいすごい!偉いネ!
次は“かきくけこ”に挑戦だ!




日記には、私が赤ちゃんのころからの成長記録が丁寧につけられていた。
内容はほとんど覚えていないけど、一言一言がすごく愛おしかった。

いつの間にか私の視界は涙でぼやけていた。
私は誰にも気づかれずに、静かに泣いた。
その時は、なんでこんな日記を読んで泣いているのかとか、母親の愛情とかがよくわからなかったけど、なんだか胸が熱くなった。

お母さん、私を産んでくれてありがとう。
苦労ばっかりかけてゴメンね。
posted at 2012/03/24 14:37:37
lastupdate at 2012/03/24 14:37:37
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2011/08/22
170 名前:大人の名無しさん投稿日:03/04/23 10:05 ID:WjmOz0ey

俺が結婚したのは俺が20、妻が21の時で、学生結婚だった。
二年ほど、貧乏しながら幸せに暮らしていたが、あるとき妊娠が発覚。
俺は飛び上がるほど嬉しくてひとりではしゃぎ、
無茶はするな、という妻の言葉も無視し次の日には退学届けを提出。
叔父さんの経営している会社にコネで入れてもらった。
まあ、とにかく俺はやる気満々で働きまくって子供元気に育てるぞ!
ってなもんだった。単純だった。

その後しばらくして交通事故で妻がお腹の中の子と一緒に死んだ。
このあたり本当に今でも良く思い出せない。
なにやら言う医者につかみかかって殴り飛ばしたこと、
妻を轢いた車の運転手の弁護士を殴り飛ばしたことは
うっすら覚えている。(むちゃくちゃだ)

そのあとは本当に記憶が曖昧だが、
葬式もきちんとすませ、手続きなんかもテキパキこなし、
何日か実家で休んだあと家に戻った。
それからは日付の感覚もなく、テレビも見ず、
ただ米を炊いて、食って過ごした。
自分が鬱なのだとか落ち込んでいるのだとかそういう思考もなかった。
自分でも状況がよくわかっていなかった。
なんとなく、カッターで指先を軽く切っては治るまで放置する、
とかいう今思うとほとんど病気(そうだったのだろうが)のような
事を繰り返して過ごした。
突然夜中に涙がぼろぼろ出てきて混乱したりしたが、
オナニーして寝てやった。
死のうという気持ちもなかったと思う。
当時のことを友人や親に聞くと、様子伺いの電話などには
きちんと受け答えしていたというのだがあまり覚えていない。
おそらくそんなこんなで半年は生活していたと思う。

171 名前:大人の名無しさん投稿日:03/04/23 10:21 ID:WjmOz0ey
ある時夢を見たが、何の夢かは覚えていなかった。
とにかくひたすら謝っていたように思う。
ふと目が覚めて、ああ、なんか悪夢をみたなと
体を起こしてその光景に心臓が止まるかと思った。

目の前に小さな女の子がちょこんと座って俺を見ている。
なんだこれは、夢か?まだ夢か?と思いながら
自分の心臓の鼓動で視線がぐらつくのを感じてびっくりした。
とっさに水子の霊だと思った。死んだ俺の子が化けて出たと思った。
そのときがはじめて自分の妻と子供が死んだとちゃんと
認識した時だったように思う。
その子が、「大人なんだから、ちゃんとしなきゃだめなんだよ!」
と俺を叱りつけた。
もう混乱に継ぐ混乱だ。汗なんかダラダラ出て、
俺、心臓麻痺で死ぬんじゃないかと思った。寝起きだしなおさら。
そのとき、部屋のドアから大慌てで隣の部屋の奥さんが入ってきた。
「すみません!この子勝手にはいっちゃって・・・」
そこでやっと現状を把握した。
よくよくみれば、この子は隣の家の子共で、
妻がいた頃はなんども会話を交わしたことのある子だった。
ドアを開けっ放しにして寝ていたところに入ってきた実在の人間だ。
幽霊じゃない。
ああ、違うのかと思った瞬間、
なんだかベロリと目の前の幕がはがれたような感じで、
俺はその子にしがみついて号泣していた。
「すいません」と「ありがとうございます」を意味不明に連発していたと思う。あとから聞いた話では、そこの一家はひきこもっていた俺のことを心配して
くれており、何度も夫婦で何をして上げたらいいか、と相談していたらしい。
その相談を一人娘のその子は聞いていて、
落ち込んだ大人を励ましてやろうと活を入れにきたらしい。すごいやつだ。

173 名前:大人の名無しさん投稿日:03/04/23 10:35 ID:WjmOz0ey
とにかく、その日がきっかけで俺はカウンセリングに通い、
二ヶ月ほどで職場復帰。
届けも出さず休んでいた俺を休職扱いにしてくれていた叔父は
快く迎えてくれ、しばらくのあいだ毎晩メシをおごってくれた。
隣の夫婦とも仲良くなり、寝起きの悪い旦那を起こしてくれとか言う理由で
毎朝家に呼ばれ、朝飯をごちそうになった。(かなり強引だ)
とにかくもう俺の周りの人間が神級にいいひと達だった。
俺は救われたし、妻と子供の死をちゃんと悲しむことができた。

で、その娘さんが先月結婚した。(すでにその隣室の親子はマイホームを建て引っ越していったが未だに仲良くしてもらってる。)
親戚が少ないから、とか言う理由で式にまで俺が呼ばれ、
親族紹介のあとその子と話す時間があった。
俺とその子は口が悪い感じの関係で(15も年が離れているのに)、
その日もあまりにも綺麗になったその子に動揺して
「オメーまだ18才なのに結婚しちゃってもったいないな」
などと俺が言うと笑いながら
「寂しいのか、あんた?」などといいやがるので
寂しいよ!と言った。
俺は昔、お前に助けてもらった、おまえのお父さんとおかあさんにも
助けてもらった、だからお前のこととても大好きだ、
だから寂しい!とまくし立てるとまた号泣していた。
30過ぎたおっさんがヒックヒック言いながら花嫁の前で号泣だ。
はずかしい。気づくとその子も大泣きだ。
新郎側はびっくりしただろうな。
親以外のおっさんと新婦が大泣きしてるんだから。

俺は今でも結局独り身だが、
その子が困ったらなにがなんでも助けてやろうと思っている。
恥ずかしいのでその子には言わないが。
もう俺にとってはあの子は自分の娘みたいなものなのだ。
なにぶん前半は10年くらい前のことなので
なんだか人ごとのように淡々とした文章で申し訳ない。
本も読む方じゃないし文章も稚拙ですまん。
漫画みたいな話なので2ちゃんで書くのは恥ずかしいと思っていたが
俺も書き込みしたくなった。長文すまん。
posted at 2012/03/14 20:12:33
lastupdate at 2012/03/14 23:04:47
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2011/08/18

■はじめて出会った時の I 嬢は、私と同じ年のはずだが、ずっと大人びて見えた。

栗色の髪、大きな瞳、高くすっとした鼻、形のよい唇をもった彼女は、造化の神の傑作といってもおかしくはなかった。どうして、こんなに素敵な女性が、白血病などという業病に罹ってしまったのだろう、と思ったが夏目雅子嬢の例をひくまでもなく、「きれいで、色白で、皆から羨ましがられるような良い性格で、食が細い女性」というがのこの病気になる要素かもしれないと、私はひそかに考えている。

I 嬢の白血病は、その当時のレベルとしては、かなり過激なやり方によって、寛解(一時的なおること)に導入できた。抗白血病剤の副作用で髪が抜けたり、肝臓が悪くなったりはしたが、時がたつにつれすっかり元どうりになり、彼女は退院した。


■4年後に悪夢はやってきた。白血病細胞は、彼女の頭のなかで、報復の時をじっと待っていたのだった。髄液の中に、あのいまわしい「白血病細胞が検出されたのである。「髄膜白血病」と呼ばれる、白血病の晩期再発であった。

「先生が、男の人だったらよかったのに」

どういう意味なのかは、聞き返さなくてもわかっていた。22歳で発病し、おそらく「恋」をしたことがない彼女にとって、私が男性であったなら、きっと最も身近な異性として、恋に落ちていただろう。

残念ながら私は女性でレズビアンの趣味はなかった。でも、その時私は本当に男であったらよかったと、心から思った。男性だったら、彼女に恋の歓びや苦しみを教えてあげられたかもしれない。

人を愛することの悲しさを知ることで、人は優しくなれると、離婚したばかりの私は、よくわかっていた。


■それから3年、彼女が白血病に罹って12年目に入ったある日、突然激しい頭痛と吐き気が、この無垢な女性を襲い、両目はまったく見えなくなってしまった。

何も悪いことをしていない彼女に、神はどうしてこんなひどい仕打ちをするのだろう。天国に迎えるための試練だとしても、あんまりだ、と私はおもった。

考えうる限りの治療を行ったが、結果は無残だった。日ごとに衰弱し、意識が薄れていく彼女を診るのは、わたしにとって、すごい苦痛だった。もちろん彼女の家族にとっても地獄の苦しみだったろう。

急性骨髄性白血病と彼女の戦いは、12年3ヶ月で終わった。享年34歳。眠るように「死」が訪れ、死に顔が穏やかな微笑みを浮かべていたことが、私にとっては救いであった。


■私事になるが、11年つきあった同級生と結婚したのが、29歳のときだった。

原宿のマンションに新居を構え、甘い新婚生活をおくったのは、わずか数ヶ月だけで、すぐに破局がきた。夫の心が私より義母にあると知って、わたしは何度バルコニーから飛び降りようと思ったことだろう。

絶望の淵から私を引きもどしたのは、 I 嬢だった。彼女をなんとかしなければ、という思いが、私を破滅から救ったのである。

私が明日彼女を診に行かなかったら、きっとがっかりするだろう。どんなに辛くても、私は生きて頑張るしかないのだ、と決意するには、しばらく時間が必要だった。

I 嬢の遺体を運ぶ霊柩車が、病院を出るとき、私は深く頭を下げた。

「ごめんなさい。そして、ありがとう」

心の中で、私はつぶやいた。10年以上の間、勇敢に白血病と闘い、一時は病魔に打ち勝ったばかりか、主治医の生命まで救ってくれた人への賞賛の呟きだった。


(1996年「無菌病室の人びと」赤坂祝子)から抜粋
posted at 2012/03/14 18:29:43
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2011/08/15
939 :大人の名無しさん :04/06/07 11:15 ID:hqAE586k
親と喧嘩をし、「出て行け」と言われ家を飛び出して6年。

家を出て3年後に知り合った女性と同棲し2年後に子供が出来た。
ものすごく嬉しかった。
母性愛があると同じように父性愛というのもあると気付いた。
子を愛さない親は居ないと言うのも知った。

妻の検診の日は毎回産婦人科まで一緒に行った。
エコーで動きを見た日は遅くまで妻とこの子の名前や性別を考えていた。
初めて聞いた元気な心音に「父さんはおまえの為にがんばる」と誓った。

何もかもが順調だと思ってた。
予定日の1ヶ月前に妻が破水をした。
切迫流産の前兆だったそうだ。
妻も元気で何も問題なんて無いと思っていただけにビックリした。

嫌な言葉が蘇った。
「八月子はもたない・・・」


940 :大人の名無しさん :04/06/07 11:15 ID:hqAE586k
詳しい検査をした時に娘の心音に雑音が混ざっている事が分かった。
母子ともに危険な状態になった為、緊急手術で帝王切開する事になった。

よく晴れた10月に君は生まれた。
最初は小さく泣いたらしい。
けど自発呼吸が出来なかったため、
器官に酸素供給するための管を通す事になった。

その後の事は覚えてるけど良く覚えてない。
何処からが現実で何処までが現実じゃないのか。

初めてNICUで見た娘の姿に涙が出そうになった。
娘にかけた最初の言葉が「生まれてきてくれて有難う」.

その後、母親に連絡を取った。
母親の声を聞いたのは実に何年ぶりだろう。
初めて人前で泣いた。
母親にも見せたことの無い涙を見せた。母親も泣いてくれた。
「孫娘には何の罪も無いのに何故・・・」と。


941 :大人の名無しさん :04/06/07 11:17 ID:hqAE586k
色々医師から説明を受けた。絶望って眩しくも、真っ暗でもなかった。
いつもの生活が私と妻を追い立てた。

娘は管から母乳も飲み、オムツも替えさせてもらい、
名前も付けてやれたし、出生届も出せてやれた。
戸籍上も私の娘。可愛い。

医師からの突然の電話。

最初で最後、娘を抱っこしてあげれた。涙が出そうになった。
だけど泣かなかった。泣く必要は無いと自分に言い聞かせた。
18日間、娘は良くがんばった。

妻と二人で娘を荼毘に出し、小さな骨壷に骨拾いをした。
やっと娘は父と母が住む家に帰ってこれた。


942 :大人の名無しさん :04/06/07 11:20 ID:hqAE586k
最近はやっと落ち着いてきた。
けど、まだ気持ちの整理はついていないのだろう。
posted at 2012/03/14 22:50:04
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2011/08/05

【相談】
私には精神障害を持つ兄がいます。封建的な地方の住まいで、周りからも偏見も多く結婚にも支障が出ています。付き合っていた相手の親に、兄のことを悪く言われたり身辺調査されたりしてきました。人並みに恋愛もしてきましたが、このままだと結婚できないかもとも思ったりします。両親も頼りにならず将来の不安ばかりが襲ってきて、やりきれない気持ちになります。(28歳・派遣社員)

【答え】
あなたはラッキーだったんですよ。大災難から逃れられたんだから。
お兄さんへの偏見に限らず、世の中には多くの偏見があるけど、偏見をもつことを恥と思わない、それ以前に偏見を自覚していない連中は、しょせんクズのレベルでしかありません。

“類は友を呼ぶ”というように、そういうレベルの人は同じようなレベルの人とくっついて「自分達が低レベルな知性しかもたず生きている」ことすら気づかないで一生を終えるわけ。そんな連中と家族の契りを結ぶような不幸がおこらなくてよかったじゃないの。

結婚後にお兄さんの障害がわかったらどうなっていたことか。またはお兄さんが障害をもってなくても、そんな低レベルな人たちのところに嫁に行ったらどうなっていたか。想像して御覧なさい。

そういう視点で見れば、お兄さんは相手の男とその家族がクズかどうかを判別してくれるリトマス試験紙のようなありがたい存在だともいえるわけ。あなたが、ろくでもない人間と長いことかかわらないですむのは、お兄さんのお陰でもあるのです。

少数派ではあるけれど「お兄さんはお兄さん。あなたはあなた」ときちんとらえることができる、中身のしっかりした人だって、この世にはいますよ。


ただ、あなたにはもっとやっかいな問題があります。
いちばんの大きな落とし穴といってもいいかもしれない。それはあなたが「結婚すれば幸福になる」「結婚しないと暗い将来しかない」と思い込んでいること。

友人知人古今東西の有名人まで、結婚して、絵に書いたようなバラ色の人生を送っている人がどれだけいるか。結婚してしあわせ一色になる夫婦なんて言うのは圧倒的に少数派であるということぐらい周りをみまわしてみればわかることです。

「結婚=幸せ」だったら、この世に離婚も不倫もないはずです。

他人と一緒になって添い遂げるということは、大いなる妥協と忍耐と諦めを引き受けなければならないっていうこと。その覚悟がないと「こんなはずじゃなかった」と愚痴ばかりこぼす人か「どこかに完璧な結婚生活がある」と結婚離婚を繰り返す人になります。

今のあなたでは結婚したとしても、二つのどちらかに転ぶでしょうね。

一人で生きていこうと、連れ合いとで生きていこうと、人生は困難の連続です。だからお兄さんのことは一切関係ありません。

今の環境が嫌なんだったら、一人暮らしをして、結婚をしたいのなら、その困難を覚悟のうえで相手を探せばいいだけの話。独りで生きていくことを決めたのなら、他人が口を挟むことのほうが間違いです。

世間体とか周りの目なんて、ビタ一文もくれやしません。何か会ったら悪口をいうために存在しているのが世間なんですから。

posted at 2012/03/14 12:42:00
lastupdate at 2012/03/14 12:42:00
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2011/08/04
物心がついてからこっち、涙を流したことなんて二回しかない。本当さ。

一回は小学校6年の時。結構、本気で集めていた切手帳を、教室で盗まれちゃったときのことだ。今考えてみれば、使用済みの切手ばかりでケチな内容なんだけど、当時はまだ子供だったしね。本当にがっくり来て、自分が可哀相になって泣いちゃったんだな。

二回目は十七歳のときのことだ。いい年こいて、恥ずかしい話だけど。その時のことを話すよ。

ぼくの父親は救いようのないロクデナシでね。根っからの博打打ちなんだ。今時、珍しいと思われるかもしれないけど、本当さ。といってもヤクザ屋さんじゃないよ。一応カタギで、セールスマンをやってた。セールスするものは、その時どきで入れ替わり立ち代りするんだ。百貨辞典を売り歩いていることもあれば、ミシンを売っていたり、医学関係のビデオを病院に売りつけたり、まあ色々さ。

ぼくが中学の時には、インチキ洗剤をセールスして大もうけしたこともあった。これが、いわゆるネズミ講でね。けれど本当にウマイ話なんて世の中にはないのさ。結局、損をした会員たちが騒ぎ始めて、儲けた連中はオヤジを含めて世間から袋叩きにあって、もうケチョン、ケチョンだよ。その後、オヤジは競馬や競輪の違法仲介のノミ屋を始めるんだけど、そんな生活を繰り返していたおかげで、家の中はすっかり暗くなっちまった。

毎月末には借金返済を迫る電話がガンガン掛かってきたし、ヤクザ屋さんも取り立てにきたりさ。もう本当に参ったよ。それでもオヤジは博打を止めようとしなかった。そのうち麻雀に出かけるようになり、家にもあまり寄り付かなくなった。






オヤジが不在がちになり、稼ぎを入れなくなると、仕方なくお袋は給食センターみたいなところへ働きに出るようになった。家にはぼく一人だけがいるみたいな状況だ。

そんな毎日のなかで、ぼくの唯一の楽しみといったら、バイクに乗って当てもなく走り回るくらいのことだった。バイクといっても小型の80ccでさ。ヤマハのミニトレっての。高校二年のとき、一夏つぶして懸命にバイトして買ったのさ。青果市場から駅まで、トラックに積んだ桃を運ぶっていうバイトだった。

ありがたいことにお袋は、ぼくが自分で稼いだ金の使途については何も意見しなかった。ちょっと後ろめたかったけどさ。何しろ十七歳だったからね、ひとつくらい自分の楽しみがないと、気が狂いそうだったんだよ。

そして、高校三年の夏。ぼくはミニトレのシートにでかい箱をくくりつけて、お中元を配達するバイトをしていた。このバイトは桃運びに較べると、ペイも良かったし、何しろバイクにのることで金になるなんて夢みたいな仕事さ。

この夏家のほうは相変わらずでね。お袋は毎日朝から夜中まで給食センターだし、オヤジの奴は7月半ばから一度も姿をあらわさなかった。







9月になって、ぼくは夏の間に稼いだ金をお袋に見せ、使ってくれと申し出た。別に親孝行気取ってるわけじゃないよ。いつもお袋が働いているのに、自分だけがミニ乗ってフラフラしてる後ろめたさがあったからさ。

でもお袋は純粋に親孝行と受け取ったらしくてね。大変な喜びようだった。赤ん坊みたいな笑顔でさ。あんなお袋みたの初めてだよ。ところがお袋の奴、さんざんにハシャイだ末にこう言うんだよ。「ありがとう。でもこのお金はあなたが使いなさい」ってさ。

これにはぼくも驚いたね。まったく予想外だったんで、しばらく唖然としちゃったよ。お袋はお金の入った封筒をぼくの手へ握らせて、うれしそうに何度もうなずきながら台所へ引っ込んじゃった。
そしていつも通りにぼくの夜食を作りながら、何を思ったか、
「今度の日曜日、二人でどこかへ遊びに行きましょうか」
そんなことを言うんだ。

ぼくは少々面食らった。だって格好悪いじゃないか。いい年こいてオカアサンと一緒なんてさ。だから最初は「よせやい」とか言って回避しようとしたんだけど、意外にもお袋は執拗だった。あんまり言うもんだから、
「そんなこと言ったって、どこ行くのさ」
と訊き返すと、しばらく考え込んだ後に、
「動物園がいいな」なんて子供みたいなこと言うんだ。

「あなたのほら、オートバイで行きましょうよ。後ろへ乗れるんでしょう?そうすればバス代だって浮くし」
「ミニトレに?お袋と二人乗りかよ!」
あまりの提案に、ぼくは大笑いしてしまった。ぼくはさんざん笑って、赤面し、何度も断わった。けれどお袋はどうしても動物園に行くって言い張るのさ。

考えてみれば、お袋は昔から動物が好きでさ、犬とかネコとかをいっぱい飼いたいっていつも言ってたんだ。だけどぼくの家は犬猫ご法度のアパートだしさ。しかたなく、お袋はインコや金魚を飼ってたんだ。

だから、まあ動物園に行きたがる気持ちもなんとなく分かるじゃないか。可哀相なんだよ。毎日毎日何の楽しみもなく給食センターで働いてさ、皿洗いのやりすぎで指紋がなくなっちゃうほど頑張ってるんだから。
「しょうがねぇなぁ」
だから最後には、ぼくのほうが折れたのさ。恥ずかしいのを我慢して、お袋の奴をちょっとだけ喜ばしてやろう。そう思ったんだ。





そんな経緯があって、次の日曜日。ぼくとお袋は連れ立って動物園に出かけた。ホント恥ずかしくて死にそうだったよ。動物園に車での二人乗りも恥ずかしかったけど、弁当のほうがもっと照れたな。

辺りを見渡すと家族連れはたくさんいたけど、ぼくらみたいな組み合わせは他にはいなかった。なのにお袋の奴はウキウキしちゃってさ、「たまご焼きも食べなさいよ」とか「こっちがシャケで、こっちが梅干」とか大声で言うんだ。ぼくはわざとふさぎこんで、不機嫌な表情でもくもくと食った。そうでもしなきゃ、この気恥ずかしさに耐えられそうになかったのさ。

ところが昼飯を食い終わってお茶を飲む頃になると、今度はお袋のほうが、不意に黙りこんだんだよ。どうしたのかな、と横目で様子を窺うと、お袋はちょっと目を潤ませていた。そしてゆっくりした口調でこう言ったんだ。

「お父さんとね、私、離婚したのよ。7月に」
ぼくは飲んでいたお茶を止めて、お袋の横顔を見つめた。

「・・・これはね、男と女のことだから。分かってくれるわね。あなたになかなか言い出せなくて困ってたんだけど。平気よね。あなたもすっかり大人になって、お父さんの代わりに稼いだりしてくれるものね」
そこまで話すとお袋はぼろぼろ涙をこぼした。

「このあいだ、あなたがアルバイトしたお金を渡してくれたとき、本当にうれしかった。私、そんなこと全然考えていなかったから・・・。本当に、そんなこと全然考えていなかったの・・・」
お袋は一生懸命微笑もうとし、けれど上手くいかずに顔をくしゃくしゃにして泣いた。








ぼくは何か言ってやりたくて仕方なかったけれど、一言も浮かんでこなかった。何ていうんだろう。お袋が自分の子供のように思えてきちゃったのさ。アルバイトで気楽に稼いだお金のことでこんなに感激するなんて。本当に良いことがずっとなかったから、この程度のことで泣いちゃうんだよ。

その後、ぼくらは黙って園内をまわった。その時の気持ち、うまく説明できないな。さっきまでは照れ臭くて仕方なかったのに、今度は逆に、誇らしいような気分になっていたのさ。要するにぼくは、お袋に連れられて、動物園にきたのではなく、お袋を動物園に連れてきたんだ。そういう気持ちになっていたんだよ。

ミニトレに跨り、エンジンをかける。サイドスタンドを外して、
「さあ、乗んなよ」
振り向いて、そう言う。
するとニ、三歩離れて立っていたお袋は、微笑んで小さくうなずいた。その様子が、妙に老け込んで見える。

「ああ、楽しかった」
お袋はぼくの腰に腕を回しながら、誰にともなくそう呟いた。ぼくは自分のベルトあたりで組み合わされているお袋の手を見た。皿洗いのやりすぎで、指紋もなくなり、ザラザラに荒れた手だ。

それを目にしたとたん、ぼくは声を放って泣き出したくなっちゃたんだよ。色んなことが申し訳なくて、お袋に謝りたくて、胸が詰まったんだ。ごめん、ごめん、って何度も胸の中で繰り返しているうちに、涙が流れて止まらなかった。

カッコ悪いよな。お袋を後ろに乗せて、ミニトレに跨ったまま、泣いているなんて。でもいいさ。ぼくのこと指差して笑う分には、いっこうに構わない。けれど、お袋のことを笑う奴はタダじゃおかない。これはぼくの大切なお袋だ。立派なお袋だ。誰にも文句なんか言わせない。

そんなふうにしてぼくは、十七歳の夏の終わりに心から泣いてしまったんだよ。


posted at 2012/03/14 22:46:08
lastupdate at 2012/03/14 22:46:08
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2011/08/02
210 名前:しやわせもの 投稿日:06/01/13 02:55


二人で部屋でマッタリしていると、ヒマすぎてしりとりが始まった。
「りんご」「ごりら」「らっぱ」「パラソル」「ルビイ」・・・
数十回続き、スピードが次第に落ちてくる。
そして、オレの番のお題が「け」で回ってきた。

オレ「け・・・け・・・」
女 「はやくー、『け』なんて簡単じゃんー」
オレ「け・・・け・・・結婚しよう・・・」
女 「・・・・・うん」
オレ「『ん』がついたからお前の負けだぞー」
女 「負けちゃったけど、すっごくうれしい事あったからいいもん!」

posted at 2012/03/14 22:46:40
lastupdate at 2012/03/14 22:46:40
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