クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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2012/10/02
私の前の上司(課長)は無口、無表情。雑談には加わらず、お酒も飲まず、人付き合いをしない堅物でした。
誠実公平、どんな時でも冷静なので頼もしい上司なのですが、堅過ぎて近寄りにくい雰囲気がありました。
そんな課長の机の上には奥さん、子供四人と写った写真が飾られてて、
「あの朴念仁でも家族は愛してるんだな」と微笑ましく思ったものです。
何年経っても同じ写真が飾ってあったので、理由を聞いてみたら、
「一番かわいかった頃の写真だからね」と照れ笑いを浮かべながら答えてくださいました。
それが私の見た唯一の課長の笑顔でした。

そんな真面目一徹、入社以来無遅刻無欠勤の課長が三日続けて無断欠勤。
家に電話しても誰も出ず、親族の連絡先も分からなかったので、
部長が直接課長のマンションを訪ね、管理人さんにお願いしてドアを開けていただきました。
課長は玄関で倒れていて、既に冷たくなっていました。急性心不全だったそうです。
部長が管理人さんに課長の家族がいつ戻ってくるか聞くと、「○○さんには家族はいないですよ」という返事。
あわてて人事部の資料をほじくり返すと、確かに課長には家族がいません。
課長は10年前に中途入社した人なので、それ以前に家族に逃げられていて、写真を見て幸せだった時代を懐かしんでいたんだと思い、少し悲しくなりました。
結局、課長の葬儀にも家族も親族も顔を出さず、血縁の人たちの冷たさにもっと悲しくなりました。

後日墓参りに行くと、立派なお墓が立っていました。死んでやっと家族と和解できて、立派なお墓を立ててもらえたのかと安心して墓石を見てみると、愕然としました。
お墓は古びていて、課長と同じ名字の名前が墓誌にいくつも彫ってありました。
課長以外は全員十数年前の同じ日に亡くなっていました。

家族を一度に亡くしてからの十数年の歳月を、彼はどんな気持ちで過ごしていたんでしょうか?
二度と会えない家族の写真をどんな思いで毎日眺めていたんでしょうか?
人を遠ざけ、自分のことを決して語らなかった課長の姿を思い出し、涙が止まりませんでした。
posted at 2012/10/02 0:03:28
lastupdate at 2012/10/02 0:03:28
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数年前に亡くなった私の祖父は、とても無口な人でした。
よく口を「へ」の字にして、腕を組んで座っていたせいか、親戚の子供たちからは「怖いお
じちゃん」と呼ばれ、「おじちゃんがいるなら遊びに行かない」とまで言われてました。
母親もその姉妹も、実の父なのに抱っこしてもらったり、あやして遊んでもらった記憶が
あまり無いと言っていました。
私は祖父のことを嫌いではなかったけど、遊んでくれるわけでもないのでどちらかという
と祖母になついていたのですが、
ある日、たまたま家に祖父と私だけしかいなかった時。
一人でもくもくと本を読む私に祖父が
「飴食うか?」
と言ってきました。
「食べる」といってもらった飴はミルク味ののど飴。
のど飴があまり好きじゃなかったけど、無理して1つ食べました。
そしてまた本を読んでいると、祖父が
「飴もっと食うか?」と。
あまりしゃべらない祖父が話しかけてくるのが少し嬉しくて、本当は苦手なのど飴を「お
いしい」と言ってたくさんもらいました。
それから祖父は、私をみかけると飴をくれるようになりました。
今思えば、祖父は孫としゃべるきっかけを探していたんでしょうね。

祖父が亡くなる少し前、就職活動中だった私は、父親がいなくて金銭面で祖父にお世話に
なっていたこともあり、久しぶりに祖父の家に行き、進路を相談してみました。
相談といっても、無口で半寝たきりの祖父にたいしたアドバイスは期待していなかった
し、とりあえず報告と思って話したんですが。
でも祖父はしっかりとした口調で、たくさん私と話をしました。
祖父は私のことをなんでも知っていました。
小さい頃からの細かい私の変化を、すべて知っていました。
そして、
「高校の頃は少し信用できなかったけど(少し荒れてたので)、
最近は落ち着いてきた。好きにやればいい」
と言ってくれました。
高校時代、不安定だったとはいえ、祖父にその姿を見せたことはなかったはずなのに・・・
びっくりしました。

長くなりますが、2へ続きます・・・
その後、祖父の容態は徐々に悪化し、私の就職が決まる頃には、病院のベッドに寝たきり
になってしまっていました。
威厳のあった祖父が、看護婦に子供のように扱われ、食事が取れないため入れ歯の抜かれ
た口に小指の先ほど小さな氷のかけらを入れてもらい、もごもごとしているのを見て、と
てもショックで、悲しくなりました。
その姿を見たくなく、お見舞いの足も遠のいていきました。

ある日、学校にいた私に母から連絡が入りました。
「おじいちゃんが、もうダメかもしれない。
 アンタの名前を呼んでる」
急いで祖父のもとへかけつけると、母が「おじいちゃん、○○(私の名前)がきた
よ!!」と言いました。
薬の副作用で脳がぼんやりしている祖父に
「おじいちゃん、会社が決まったよ!」と報告すると、目をあけて「わかった」というよ
うに少し首をふってくれました。
それ以来、祖父の意識はますます朦朧とし、言葉を話すことができなくなりました。
祖父の最後の一言が、私の名前になりました。

亡くなってから、何気なく祖父の部屋にあった海苔の缶をあけると、中にはたくさんの飴
が入ってました。
祖父が半寝たきりになる前に、大好きなパチンコに行った帰りに、買ってきたのでしょ
う。
私が、忙しいことを理由に祖父の家に遊びに行かなくなっても、祖父は飴を買っていたの
です。
もっともっと、おじいちゃんと話せばよかった。
いろんな相談をすればよかった。
たくさん後悔がおしよせました。

今でも、飴を食べるときは祖父のことを思います。
月命日にはなるべくお墓参りに行きます、祖父の好きな黒飴とミルクのど飴を持って。
posted at 2012/10/02 0:03:28
lastupdate at 2012/10/02 0:03:28
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