クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。

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2012/10/09
19、20歳の時、一人暮らしの女の家に転がり込んで
一緒に生活を始めた。
好きな時に帰って、好きな時にエッチをして、好き放題していた。
そんなちゃらんぽらんな事ばかりしていたので、その女に子供ができてしまった。その時
の俺は、堕ろすことしか頭になかった。
それが当たり前だと思っていた。
手術日の前日の夜、女の家の机の上に一通の手紙が置いてあった。

「パパへ
 初めまして、私はこころといいます。
 今はまだ、ママのおなかの中にいます。
 こころは、パパのお顔を見てみたかったです。
 こころのお顔も見てほしかったです。
 パパはこころのことが大嫌いで会いたくないのかも知れませんが、
 こころはパパのことが大好きです。
 こころはお空の上からパパのことを見ているので、
 パパもこころのことを忘れないで下さい。
 こころはパパのことが大好きでした。
 こころ より」

俺はぼろぼろと泣きながら、何回も読み返した。
どうすることもできない自分が情けなかった。
けなげに寝ている彼女の姿を見て、また泣いてしまった。

今は別の女と結婚して、2児の父親になった。
今でもこころのことを思うと、切なくなってしかたがない。
posted at 2012/10/09 0:12:13
lastupdate at 2012/10/09 0:12:13
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2012/10/03
記憶に新しい新潟県中越地震、オレはその被災者だ。
地震が起きる数時間前の事だった。その日は選手権の県予選があり、勝利した後であっ
た。
地震後オレは友達と連絡を取りみんなの無事を確認した。しかし4人程連絡を取ることが
出来なかったのだ。
1日…また1日と日にちが過ぎ、5日後2人の無事が避難所で確認出来た。しかし残りの
2人はいなかった。
メール、電話、伝言ダイヤル、掲示板。色々な手段を使った。
結局連絡のないまま学校も部活も始まった。顧問に教室に集められ1人の無事を聞いた。
「A君は?」と尋ねた。顧問は鞄から袋に包まれた携帯を取り出した…A君の物だった。
『みんなへ 今までありがとう。』顧問が読みあげた。A君は家具の下敷になっていたら
しい。薄れ行く意識の中で打ったのだろう…
部員みんなが泣いた。ほんの数時間前まで一緒にプレーしていた仲間だった…
今、部室にはみんなで写った最後の写真が張ってある。見る度にオレは涙が落ちる。

新潟県中越地震は皆は忘れたいと思っているだろう…でもオレは永遠に忘れる事は無いだ
ろう…同じプレイヤーだったA君と共に語り継ぐだろう…
posted at 2012/10/03 0:13:26
lastupdate at 2012/10/03 0:13:26
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2012/10/02
数年前に亡くなった私の祖父は、とても無口な人でした。
よく口を「へ」の字にして、腕を組んで座っていたせいか、親戚の子供たちからは「怖いお
じちゃん」と呼ばれ、「おじちゃんがいるなら遊びに行かない」とまで言われてました。
母親もその姉妹も、実の父なのに抱っこしてもらったり、あやして遊んでもらった記憶が
あまり無いと言っていました。
私は祖父のことを嫌いではなかったけど、遊んでくれるわけでもないのでどちらかという
と祖母になついていたのですが、
ある日、たまたま家に祖父と私だけしかいなかった時。
一人でもくもくと本を読む私に祖父が
「飴食うか?」
と言ってきました。
「食べる」といってもらった飴はミルク味ののど飴。
のど飴があまり好きじゃなかったけど、無理して1つ食べました。
そしてまた本を読んでいると、祖父が
「飴もっと食うか?」と。
あまりしゃべらない祖父が話しかけてくるのが少し嬉しくて、本当は苦手なのど飴を「お
いしい」と言ってたくさんもらいました。
それから祖父は、私をみかけると飴をくれるようになりました。
今思えば、祖父は孫としゃべるきっかけを探していたんでしょうね。

祖父が亡くなる少し前、就職活動中だった私は、父親がいなくて金銭面で祖父にお世話に
なっていたこともあり、久しぶりに祖父の家に行き、進路を相談してみました。
相談といっても、無口で半寝たきりの祖父にたいしたアドバイスは期待していなかった
し、とりあえず報告と思って話したんですが。
でも祖父はしっかりとした口調で、たくさん私と話をしました。
祖父は私のことをなんでも知っていました。
小さい頃からの細かい私の変化を、すべて知っていました。
そして、
「高校の頃は少し信用できなかったけど(少し荒れてたので)、
最近は落ち着いてきた。好きにやればいい」
と言ってくれました。
高校時代、不安定だったとはいえ、祖父にその姿を見せたことはなかったはずなのに・・・
びっくりしました。

長くなりますが、2へ続きます・・・
その後、祖父の容態は徐々に悪化し、私の就職が決まる頃には、病院のベッドに寝たきり
になってしまっていました。
威厳のあった祖父が、看護婦に子供のように扱われ、食事が取れないため入れ歯の抜かれ
た口に小指の先ほど小さな氷のかけらを入れてもらい、もごもごとしているのを見て、と
てもショックで、悲しくなりました。
その姿を見たくなく、お見舞いの足も遠のいていきました。

ある日、学校にいた私に母から連絡が入りました。
「おじいちゃんが、もうダメかもしれない。
 アンタの名前を呼んでる」
急いで祖父のもとへかけつけると、母が「おじいちゃん、○○(私の名前)がきた
よ!!」と言いました。
薬の副作用で脳がぼんやりしている祖父に
「おじいちゃん、会社が決まったよ!」と報告すると、目をあけて「わかった」というよ
うに少し首をふってくれました。
それ以来、祖父の意識はますます朦朧とし、言葉を話すことができなくなりました。
祖父の最後の一言が、私の名前になりました。

亡くなってから、何気なく祖父の部屋にあった海苔の缶をあけると、中にはたくさんの飴
が入ってました。
祖父が半寝たきりになる前に、大好きなパチンコに行った帰りに、買ってきたのでしょ
う。
私が、忙しいことを理由に祖父の家に遊びに行かなくなっても、祖父は飴を買っていたの
です。
もっともっと、おじいちゃんと話せばよかった。
いろんな相談をすればよかった。
たくさん後悔がおしよせました。

今でも、飴を食べるときは祖父のことを思います。
月命日にはなるべくお墓参りに行きます、祖父の好きな黒飴とミルクのど飴を持って。
posted at 2012/10/02 0:03:28
lastupdate at 2012/10/02 0:03:28
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2012/10/01
私が小学校3年生の時 おじいちゃんは亡くなりました。
お葬式が終わッた夜、私と妹はまだ子供なので隣の従兄弟の家で寝かされました。
その後聞いた話ですが、真夜中みんながウトウトしてきた頃急にお供えのバナナがおじい
ちゃんの棺のガラスに落ちて来たらしいです。
お母さんは、
『きっとみんながウトウトしてたからおじいちゃんが怒ってバナナ落としてみんなを起こ
したんや。』
と言っていました。
私にはおじいちゃんは、いつもバナナを食べていた記憶があります。
だから、おじいちゃんはバナナを取ろうとして落としてしまったのだろうと今でも思っています。
posted at 2012/10/01 0:00:57
lastupdate at 2012/10/01 0:00:57
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2012/09/26
8年前父が他界しました。
弱いくせに、お酒ばかり飲んでいたのが原因。
 
 私が高校生の頃から飲みすぎで肝不全になりかけて何度も救急車で運ばれ、入退院を繰
り返す日々。
 そんなとき、酔っ払っては暴れだす父に長年耐えてきた母が家を出て行った。

 それからの父は更にお酒を飲むようになって、何人もの職人さんを抱えてやっていた会
社も結局はなくなって。

 もうその頃には何度も意識がなくり、病院に運ばれ人工呼吸器までつけられるときも
あった、でもそのたびに持ち直して、退院してはまた飲んで・・・。

 そんなときが数年続いていて、もういい加減どうでもよくなっていた私は、病院にもほ
とんど足を運ばなくなっていた。

 心のどこかで、また持ち直して帰ってくると思っていたのだと思う。
 
 小さい頃はいつも父親についていって、常に父親と一緒にいたのに、あんなに大好き
だったのに。

 そんなある日、久しぶりに父親の病室に顔を覗かせた。
 すぐに帰るつもりだったけど、少ししんどそうだったので、ちょっとだけ長くそばにい
て話をした。

 少ない会話だったけど、私は父親に「もういい加減ちゃんとしよ、私もがんばるから、
お父さんもがんばろ」って。

それが遅すぎる最後の一言

 その翌日に意識がなくなってそのまま逝ってしまった。

 なんでもっと優しくできなかったんだろう、なんでもっと話さなかったんだろう。

 あんなに優しくしてくれたのに、あんなに可愛がってくれたのに。

何もしなかった自分に腹が立つし、後悔してる。
 
今更だけどお父さんごめんね。
 
いっぱい愛してくれてありがとう。

本当に本当にありがとう。
posted at 2012/09/26 0:04:18
lastupdate at 2012/09/26 0:04:18
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大好きだった君。

かれこれしつこく一年以上思い続けてゴメン。
でもちゃんと望みないこと知っててもこの気持ちは消えてくれないんだ。

理屈じゃないんだよね。

それでも君にこの気持ち伝えた。
色々考えたのに言えたのは『ずっと好きでした!付き合ってください』だけ。
笑っちゃうくらい短くて。
君は黙ってたよね…。私の気持ちきっと迷惑だったかな。

結果はやっぱり×。
私のあなたへの長い旅はやっと終わった。

君への気持ちが重くて毎日歩くのがとても大変だった。それでもあなたに触れたくて、話
したくて、声を聞きたくて頑張って歩いてた。

でも……
それも終わりだね。

私の気持ちは
あなたのおかげで死んだから。

ありがとう。私は今相変わらず不器用ながらにもゆっくり前に歩いてるよ。

傷付いた心を直しながらゆっくりと。

あなたには幸せになってほしい。

私は何よりもそれを願っています。
posted at 2012/09/26 0:04:18
lastupdate at 2012/09/26 0:04:18
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2012/09/17
最後の文字

2年前の8月10日、大好きだったじぃちゃんが亡くなりました。
私は小さい時からよくじぃちゃん家に泊まりに行ってました。泊まりに行くたびにいろん
な事を教えてくれました。
本当に優しくてみんなから頼りにされていて絶対にツライと言わない人でした。じぃちゃ
んの病名は「肝臓ガン」。その事は私の親夫婦と叔父夫婦だけにつげられました。私達孫
とじぃちゃんとばぁちゃんは何も知らず3年間は今まで通りの生活をしていたのでした。
しかし、だんだん病気が進行し入退院を繰り返すようになりました。検査入院だと本人や
周りに嘘をついていた叔父夫婦や親夫婦もとても辛かったと思います。じぃちゃんはお見
舞いに行くたびに決まって「いつ帰れるんだ」と聞いていました。早く帰って仕事がした
いと…そんな体じゃなかったのに…お腹が妊婦さんのようにふくれあがりご飯が食べれな
くなって息も苦しそうで家に帰ってきても寝てるばかりでした。そして、ツライはずなの
に明るく笑うのです。そして最後の入院。その時に私達やばぁちゃんに「今度が最後の入
院だ」と言う事がしらされました。実感がわかず、ただ早く病院に行きたいと思いまし
た。

1週間後じぃちゃんは亡くなりました。じぃちゃんの最後は親戚みんなにみとられ静かに
最後までツライと言わず安らかな顔でじぃちゃんらしく亡くなりました。
じぃちゃんの人柄かお葬式にはたくさんの人が来てくれてみんな泣いて悲しんでくれまし
た。みんなじぃちゃんに感謝していました。

後日、遺品整理をしていると一冊のノートがでてきました。それはツライ中もうろうとし
た意識の中で書いたノートでした。そこには「もうかんねんした。泣き父母弟が迎えにき
た。もう長くない…(自分が病気なのを)黙っていたのはすべて私を思ってのため、辛かっ
ただろう。ありがとう。もうあきらめよう。楽しかった。ありがとう…」と、最後に入院
する日に家で書いたらしい…じぃちゃんは全部わかってたんだ…だから最後の入院では家
に帰りたいって言わなかったんだ。
もっといっぱい喋ればよかった。
もっと優しくすればよかった。
もっと感謝すればよかった。

でも、いつか言ってた「すぐツライと言うのはほんとはツラくないんだよ」って。その言
葉忘れない。
優しい気持ち忘れない。
じぃちゃんみたいにみんなに頼られて誰にでも優しくて明るくてがまん強い人になる。あ
りがとう。じぃちゃん…忘れないよ…
posted at 2012/09/17 0:15:57
lastupdate at 2012/09/17 0:15:57
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2012/09/14
今でも、思い出すと罪悪感で一杯になるんですが…忘れないために書きます。
高校一年の頃、母は病気で車を運転したり、台所に立つのも困難でした。
父もその頃は普及しはじめた携帯での出会い系(当時は携帯会社公式のメル友を募集する
コーナーがあった)で遊ぶようになり、収入はなく、養護学校に通う弟のこともあって学
校を辞めること、自分もバイトして稼がなくてはいけないことにプレッシャーがありまし
た。
全てが、自分の肩にかかるのだと。
とりあえず三学期一杯は学校に通い、バイトを始めました。
初めてのバイトであまりうまく行かず、疲れだけを感じてたある日、父がバイト先に迎え
に来ました。
帰りにすき家で牛丼を食べたのですが、家にいる母と弟のことまで気が回りませんでし
た。
家に帰ると食事をしてない二人。冷蔵庫はほぼ空に近く、自分のことばっかりな自分と、
二人のことを無視する父に腹が立ちました。
情けなくて、自分たちの帰りを待ってた二人に申し訳なくて、今思い出しても泣きたくな
ります。

母はその二年後にあちらへ逝き、ばらばら気味だった家族が一緒にいることは叶わなくな
りました。
あの時、どうして家で食べると言わなかったのか。
どうして二人の分を持ち帰ろうとしなかったのか。
牛丼を見る度、あの時の二人の顔を思い出して痛いです
posted at 2012/09/14 0:34:17
lastupdate at 2012/09/14 0:34:17
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2012/09/13
小学5年生になったある日、祖母が親戚の法事で遠く離れた親戚の家に泊まりで行った。
その頃、祖父は病気で入院していた。
祖母は3日間位で帰ってくる予定だったのに、心臓が悪かった為倒れてあっちの病院に入
院してしまった。病状がかなり悪かったらしく、手術をしてしまうはめになり、思ったよ
り入院は長くかかってしまった。 その頃、地元では祖父の容態が急変しそのま
ま帰らぬ人となってしまった。
祖父が亡くなって1か月後、祖母が退院して地元に帰ってきた。祖母は、心臓に悪いから
と祖父が亡くなった事を知らされてなかった。仏壇の前に連れて行かれ、始めは何が何だ
か分からないという感じだったが、ようやく現実を受け止めたようで、仏壇の前にしゃが
みこんで大きな声で泣いていた。
それを陰から見て、私は幼いながらも涙が止まらなかった。
今になっても、その時の光景が頭から離れない。
posted at 2012/09/13 0:08:48
lastupdate at 2012/09/13 0:08:48
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2012/09/08
私は戦時の中、幼少時代をすごしました。
物心ついたときには母親はおらず、父は兵隊に取られ
祖父と2人田舎で暮らしていました。
家のすぐ脇には河が流れており、200mほど河を下ったところには
捕らえられた米兵を収容している建物がありました。

とある日のこと、私が芋を河で洗っていると誤って
手を放してしまいその芋を河に流してしまいました。
その芋はたまたま下流で水浴びをしていた米兵達によって
拾われました。
米兵は自分達に向かって流してくれたものだと思い
喜んで私に手を振って芋を持って帰りました。
きっとひどい扱いを受けていたのでしょう。

それから私は定期的に川下にいる米兵達に回りには
分からないように、野菜を河に流して渡すようになりました。

やがて戦果も悪化して日本軍が不利な状況になるにつれて
食糧事情は厳しいものとなりました。
もともと私と祖父の2人暮らしだったため食料で困ることは
ありませんでしたが、米兵達に食料を分け与えることは
出来なくなりました

申し訳ない気持ちになりながらもいつも食料を流している
時間私はいつものように川岸まで行きました。
いつものように200m川下では米兵達が待っています。
近づくのは禁止されていたため当然話をすることも出来ません。
ジェスチャーで分け与える食料が無いことを伝えようと、
手を大きく振ってバツマークを作って食料が無いことを伝えます。
しかし上手く伝わらず米兵達は手を振り帰してきます。
そんな私が流す食料を楽しみにしている米兵に
何もして上げられない無力な自分に腹がたち河の水を
蹴り上げると米兵も同じように真似をします。
今度は河の中で飛び上がってみるとやはり米兵達は
私の真似をします。
何とかしてあげたい。そう思いました。

私は自分の家の畑から祖父の目を盗み少しですが
スイカやかぼちゃを取り今までと同じように河に流して
米兵に渡しました。

しかし数日後スイカを取っているところを祖父に見つかり
理由を聞かれました。
私は正直にこれまでのいきさつを話しました。
すると祖父はこう言いました。
「なるほど。お前は非国民だが非人間ではないな。」
そう言うとそれ以降畑から取った野菜を河に流して
米兵に渡すことを許してくれました。

やがて終戦を迎えたある日のこと、家の上空を数機の
戦闘機が飛来してきました。
米兵を収容していた建物があったためひどい扱いを
受けていた米兵が仕返しに空襲に来たに違いない。
祖父はそう言いました。
しかし私はそんなこと無いよ。そんなこと無いよ。
と言いました。
あの米兵たちがそんなことをするとは思えなかったのです。
やがて戦闘機からたくさんの金色や銀色の小石くらいの
大きさの物が振ってきました。
爆弾だ!
祖父は言いました。
しかし何も爆発しません。
空から振ってきたものは金銀色の紙に包まれた
チョコレートでした。
なおもチョコが降り続きました。
星のように。
posted at 2012/09/08 0:00:38
lastupdate at 2012/09/08 0:00:38
修正
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