クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。

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2012/07/30
もうすぐ私は23歳になります。

本当なら、今ごろは社会人一年目を終えようとしている頃なのに、今の私は、仕事を辞め
て、またお父さんとお母さんに助けてもらっています。
心配をかけています。
こんなことになっちゃってごめんね。
はやく自立できなくてごめんね。
二人とももういい年なのに、私の為にやりくりさせてしまって、本当にごめんね。
私は今、就職活動中です。

私はお母さんとお父さんの愛情を今ものすごく感じています。
今まで、そして今この瞬間もどれだけの愛情を受けているのでしょう。
こころから感謝しています。

私が仕事で悩んでいたら、電話で話を聞いてくれた。
私が仕事で交通通事故を起こした時は、怒らずに力になってくれた。
私が泣いて電話しても泣き止むまで話を聞いてくれた。
私が会社をやめたいと言ったときも私のことを一番に考えてくれた。

どんなに大変でも、いつだって二人は私に笑顔で接してくれた。
どんなわがままを言っても、融通を利かしてくれた。
どんな夢を語っても、いつだって応援してくれた。
私がどんなに気弱になっても、あなたならできると信じてくれた。
どんなに頼っても、嫌な顔一つせずに受け入れてくれた。
どんなに離れていても、いつだって気にかけてくれた。

時には厳しい事を言ってくれた。
けど、一度だって手を挙げて怒るような事はなかった。
力任せに感情をぶつけることなく、いつも向き合ってくれた。
どんな言葉の裏にも、二人の大きな愛情を感じられた。

お父さんのようになりたい。
お母さんのようになりたい。

いつだって立派に働いている二人。
いつだって尊敬できる二人。

昔、お母さんが自分の誕生日に言ったよね。
誕生日っていうのは自分が生まれた日であると同時に、生んでくれたお母さんに感謝する
日なんだよ。お母さんが一番頑張った日なんだよって。
当時小さかった私は、あまりぴんと来なかったけれど、
あの時、おばあちゃんに感謝していたお母さんの事が、今は強くこころに浮かんできま
す。

今度の誕生日には、お母さんとお父さんにありがとうと伝えよう。
生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。

そして春までにはなんとか就職して、いつも忙しく働いている二人に、なにかプレゼント
をしてあげたいんだ。
待っててください、お父さん、お母さん。
posted at 2012/07/30 0:07:01
lastupdate at 2012/07/30 20:12:09
修正
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2012/07/29
俺が小学生の時の話。
当時俺はクラスで一番背が低かったけど体はめちゃめちゃ丈夫だった。
病気やケガもろくにしたことなかったし当然学校を休んだこともなかった。
そんな俺が小4になったころインフルエンザにかかって初めて学校を休んだ。
今までろくに病気になったことのなかった俺は病気への免疫が出来てなかったので相当きつかった。
熱は40度を越え子供ながらに俺はもう駄目なんじゃないかと思っていた。
俺が熱にうなされながらふとんに横になっていると母親が「外に誰かが来てる」と言った。
その日はものすごい大雨だった。
誰かが見舞いに来てくれたのか?でもこんな大雨の日にまさかなと思いながらも俺はよろよろと起き上がって外に出てみた。
俺が外に出ると大雨の中傘もささずに走り去る人影が見えた。
その後ろ姿はクラスメイトのYのようだった。
当時俺とYは犬猿の仲でささいなことでいつも殴り合いの喧嘩をしていた。
Yは昔で言う所の番長的な存在の奴でクラスの嫌われ者だった。
先生を殴ったり教室から先生を締め出したりするかなりの悪ガキだ。
Yと俺の家は近所で集団登校でも同じ班だった。
俺は心からYを嫌っていたわけじゃなかった。
みんなから嫌われているのを知っていながらワガママな所を直そうとしないYのわからず屋な所やひねくれた根性が嫌いでよく喧嘩をしていた。
あいつが俺の見舞いに?それとも病気の俺にとどめを刺しにきたのか?上等だやってやると思いYを追いかけようとしたが体が重くて動かない。
バカらしくなって家に戻ろうとした俺は門のブロックの間に挟まっている手紙をみつけた。
そこには汚い文字で『おい、S。風邪ぐらいで学校休むな!早く治して学校に来い。決着をつけてやる。』と書かれていた。
Yなりの見舞いの言葉だったのだろう。
俺はその手紙の内容とあまりの字の汚さに思わず笑ってしまった。
翌日、熱が下がった俺は学校へ行ってYに昨日のことを問いただしたがYは自分じゃないととぼけた。
それから二年後。
俺が小6になった時に事件は起こった。

なんとYの親父が警察に逮捕されたのだ。
Yの親父は当たり屋だったのだ。
親父の逮捕後Yの一家は大阪に引っ越した。
クラスメイトは問題児Yの転校に大喜びだった。
でも俺は正直寂しいような気持ちになった。
別に喧嘩相手がいなくなってどうこうではなくて毎日のように学校で喧嘩をしなくてすむのならそれにこしたことはない。
理屈抜きに本気でぶつかり合える相手がいなくなったことが寂しかったのかも知れない。
大騒ぎするクラスメイトを横目に見ながら俺は学校の帰りいつも下を向き一人で寂しそうに下校していたYを思い出した。
そのあまりのYの様子に何度か一緒に下校したこともあった。
Yが転校してしばらくの間は俺の家にYが電話をかけてきていたがすぐにそれもなくなった。
俺は小学校を卒業しても中学になってもときどきあの時の寂しそうなYの姿を思い出してはYのことを心配していた。
あのワガママな性格は直ったんだろうか。
向こうの学校でいじめにあってないだろうかと。
さらにそれから数年後。
俺が二十歳になり友達と成人式に行った時のこと。
懐かしい旧友と再会し昔話をしていると一緒に来た友人が慌てて俺の所に走ってきた。
そんなに慌ててどうしたんだ?と訪ねると友人は「Yが来てる。お前を探してる」と言う。
俺はその友人の言葉に驚いた。と同時に俺は駆け出していた。Yが来てる。
子供のころは顔を合わせば喧嘩ばかりしていたYを今俺は必死になって探していた。
が、会場はかなりの人ゴミでなかなかYを見つけられない。
と、後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。友人の声ではない。
後ろを振り返るとそこにはすっかり大人になったYがいた。
8年ぶりの再会だったがすぐにYだとわかった。
俺は開口一番Yに言った。
「友達もいないくせによく来たな」
我ながらバカなセリフだと思った。
Yは昔と変わらない不敵な顔で笑うと答えた。
「お前がいるだろ」

俺達は友達だった。
8年経った今初めてそのことがわかった。
それから俺とYは時間が経つのも忘れ二人で色んな話をした。
Yは大阪でヤクザになっていた。
今では子分もいるらしい。
でも俺はそんなことは気にならなかった。
あれから俺には想像も出来ない苦労があったらしい。
今こうして元気なYの姿が見れただけでうれしかった。
それからさらに4年が経った今もYは大阪にいる。
結婚を期にヤクザからは足を洗った。
今は子供と奥さんと三人で仲良く暮らしている。
今でもYとの交流は続いている。
posted at 2012/07/29 0:03:12
lastupdate at 2012/07/29 0:03:12
修正
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2012/07/26
貴方と私はなんでであったのでしょう・・・初めは、適当な気持ちで付き合ってたのにいつの間にか本当に貴方を愛してた。初めて人を愛するって事をまなんだ。でも、あなたと私の恋はとても皮肉な結果に終わった。身分違いの恋とはこのようなことなのでしょうか。貴方はお金持ちのお坊ちゃん。あたしは普通の家の娘。そんな2人を貴方の両親は許してはくれませんでしたね。お金ってそんなに大切なものなの!?家柄だとか、身分とか学歴とか・・・確かに回りは貴方がお医者様だってことにうらやましさを感じていたみたいですが・・・。あたしは貴方の仕事にひかれたんじゃない、貴方がなんであろうがよかった。お金がないなら2人で稼げばいい話だし。貴方は誰よりもやさしくてあたしを理解してくれた。どんなわがままもやさしく包んでくれた・・・。でも、もう貴方と私は違う道を歩き出してしまったのですね。お願いです、神様来世があるならばまたあの人に合わせて下さい。遠くから見れるだけでもいいから。今となっては貴方をみることすら許されませんから。毎日会いたくて会いたくて、でも、会えない・・・神様は私に何を求めたのでしょうか・・・。
posted at 2012/07/26 0:22:28
lastupdate at 2012/07/26 0:22:28
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2012/07/24
感動とか言うよりも、未だに思い出す度に
後悔の気持ちでいっぱいになって自分自身が泣けてくる話を一つ…。
多分と〜っても長いです。
長文苦手な方は読み飛ばしてくださいね。

私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。

小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
--------------------------------------------------------------------------
やばい、また涙が出てきた。
でも、今の自分を客観的に見るためにも頑張って続きを書きます。気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。

私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。

葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」 継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら錯乱状態になり、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。

年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
posted at 2012/07/24 0:01:51
lastupdate at 2012/07/24 0:01:51
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2012/07/22
かぁさん…ごめん。俺はかぁさんに迷惑ばかりかけてきた。ある日警察が家に来て警察所
で強盗致傷容疑で逮捕された。地元のニュースや新聞にもでた。捕まって面会にきてくれ
た…泣きながらちゃんと食べてる…?寝れてる…?洋服後でかっとくね…?泣きながらゆ
うかぁさんをみて思わず涙がでてきた。生活がきついのに仕事をやすんでまできてくれ
て、被害者には何回も頭下げて謝るかぁさんを思うと涙がとまらなかった…面会にきてく
れた時今までしてきた事、迷惑かけてきた事。頭下げて謝った。今毎朝弁当作ってくれる
かぁさんありがとう…
posted at 2012/07/22 0:08:29
lastupdate at 2012/07/30 20:12:17
修正
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1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
 一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。
posted at 2012/07/22 0:08:29
lastupdate at 2012/07/22 0:08:29
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2012/07/18
うちの家族は母と私(長男)、弟が二人の母子家庭。
 父と母は、私が5才の時に離婚をし親権は母親へ。「扶養金なんかいらない」と言い残
し、私たち兄弟を引き取ったらしい。女・酒・ギャンブル。全てに手を付けていた父の下
に、一人でも子供を残して行きたくなかったのだろう。
 母はそれからというもの、幼い私たちからひと時も目を離したくなかったのだろうか、
私たちの入園した保育園で働き始めた。
 お世辞にも給料は良いとは言えない。おそらく12、3万だっただろう。自分には何一つ
買わず、全てを子供の為に注ぎ込んだ母。いつもボロボロの服を着ていたのを覚えてい
る。しかし、それでも生活は厳しく、唯一ボーナスを貰ったときだけ食べに行ったのが、
ある定食屋の塩ラーメンだった。野菜がたくさんのった塩ラーメンを食べているあの時間
だけが、私たち家族の至福の時だった。…そう、夏と冬、二度だけの。

 今では兄弟も成人し、家族四人なに不自由なく暮らしている。住むところはまちまちだ
が、そんなことを感じさせないほど、家族の絆は深い。…兄弟三人。しかも年子で男ばか
り。これを、女手一つでここまで育て上げた母を、私は世界中の誰よりも尊敬している。

 そして、その定食屋はというと。…大変残念な事に、数年前に店主が癌で亡くなり、今
はその形だけが残り、シャッターを下ろしている状態である。しかし、今でもあの店の雰囲気と、四人で過ごしたあの時間を生涯忘れる事はないだろう。
posted at 2012/07/18 0:08:42
lastupdate at 2012/07/18 0:08:42
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私は小さい時から中耳炎で、しょっちゅう耳が痛くなって治療のために耳鼻科に行っていました。
小学校に入ると私が耳鼻科に行くために学校を休んだり早退したりすると
クラスの子に「病気でもないのに、授業を受けたくないから仮病を使っているんだ」と
散々からかわれて辛い思いをしていました。
うちの母は片耳が難聴で聴こえないんですが、おばあちゃん(母方の)がそれを気にしていつも
「ごめんね、お母さんの耳が悪いから○○ちゃんの耳も悪くなってしまって」と私に謝るのです。
小学3年生のある日、おばあちゃんが急にうちに遊びに来て「これから巣鴨に行こう」と言い出しました。
当時は子供すぎて巣鴨に何があるなんて知らなくて、ただおばあちゃんと出かけるのが嬉しくてついて行きました。

巣鴨に着くとおばあちゃんは長い行列に並んで
「ここはとげぬき地蔵様があるんだよ、お地蔵様の自分の体の悪いところを洗うと
身代わりになって治してくれるの」と言いました。
私たちの順番になるとおばあちゃんはシワシワになった手でタワシを持ってお地蔵様の左耳を
ゴシゴシと擦りながら「○○ちゃんの耳がよくなりますように」と一生懸命洗ってくれました。
帰りにおばあちゃんは「あんみつ食べて行こうか」と言って一緒にあんみつを食べました。
おばあちゃんは6年ほど前に亡くなったんですが、おかげで今では中耳炎も良くなり、ここ5年は中耳炎で耳鼻科に行ったことが一度もないくらいになりました。
おばあちゃん、中耳炎良くなってきたよありがとう。
リアル出会いの決定版!
posted at 2012/07/18 0:08:42
lastupdate at 2012/07/18 0:08:42
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恋話なるが聞いてくれ
泣ける話かも分からんが

卒業式が終わった
いや終わったというか抜け出した
呆れた、ウザかった、アホらしかった
やっと開放されたと思った

俺はこの中学の野球部を東海大会まで導いてやった
でも、誰も認めてくれなかった
無失点で投げ続けて降板、そのあと下級生が打ち込まれて俺の夏終わりだぞ
しかも俺が戦犯になってる
バカばっかだwww
おかげで私立の推薦もパーだ
誰ともつるみたくない、帰ろう
そう思って校門を抜けようとした

「大◯君?」
振り返って見ると塾で知り合った他中の女の子だった
実は少し気になってた子だった
ポニーテールだったし

「お前、何してんの?お前んとこも卒業式今日だろ?」
聞いてやった
まぁ暇つぶしにはなると思ったからな
「サボっちゃったw」
そいつはまた言葉を続けた
「今日は君に言いたい事があって来ました」
「?」
少し沈黙がおとずれた

「私は君が好きです」
短い言葉だったが思いは伝わった
でも答えに迷った
少し考えたかった
俺も人間不信だったから

「悪いけど少し考えさせて、また連絡するから」
そういうと彼女は少しさみしげに帰って行った
今思うと何でそこで答えを出さなかったのか後悔している
3日位たって俺は答えがまとまった
「あいつと付き合う」と

そして彼女に電話で伝えようとした
でも電話に出ない
何回コールしても何分まっても
一向に出なかった
その時に見ていたテレビにニュース速報が流れた
火災一軒家全焼中から◯◯さん(15)が遺体で発見

紛れもなく彼女の名前だった
原因はストーブの切り忘れだった

どうして・・・
posted at 2012/03/24 0:03:01
lastupdate at 2012/06/07 13:18:55
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2012/07/16
高校生の時に付き合ってた人がデートの別れ際に私の目の前に交通事故にあった。
私が救急車をよんで彼は「全然大丈夫だから」と言って救急車に乗り込んだ。
ほんとにその時は全く平気っぽくみえて私も安心していた。でもその夜に彼が死んだ。
なんにも感じなかったし、彼が死んだことを受け入れられなかった。
お葬式の日も私は全く悲しいとかそういう感情もなくて、彼が死んだことになにも感じなかった。
そんな自分を責めたりもしたけど、どうしても悲しくなかったし、泣くこともできなかった。
周りはすごく私に気を使ってくれたんだけど、そう言う風に気を使われるのも私にとっては
うっとおしいだけだった。
半年ぐらい経って友達と死んでしまった彼のことを話していると
なぜだか急に涙があふれてきて私は泣き崩れた。自分でもびっくりするぐらい涙が出て、
悲しいって感情は無いのにどうして涙だけが出るのかわからなかったけど、
彼氏が死んでから半年経ったその時私は初めて泣いた。
posted at 2012/07/16 0:00:57
lastupdate at 2012/07/16 0:00:57
修正
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