クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。

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2010/12/26

<最近の娘との会話。>

★二女が庭にラムネ菓子を埋めていた。

私「なにしてんの?」。
二女「お父さんも前に埋めとったやんね。そやけん、朝顔が咲いたり、トマトが出来たっちゃろ?ラムネを埋めたらラムネの木が出来るっちゃないと?」。

★二女を連れてスーパーへ買い物に行った。

二女「お父さん、おんぶして」
私「もう4歳になったんやから、自分で歩きなさい」。
二女「お父さん、最近、運動不足やろが」。

★長女が言う。

長女「お父さんが会社に行っちょる絵を描いたとよ」。
私「どれ、見せて」。
その絵を見たが私の姿がない。
私「お母さんやみんなは描いてあるけど、お父さんは描いてないやん?」。
長女「会社に行っちょるから、おらんに決まっちょるやんね」。←なるほど。

★嫁が長女をこっぴどく叱っている。

私「キョーコがなにかしたのか?」。
嫁「私のクルマを釘みたいなもんでひっかいとるとよ!」。
私「なんでそんなことしたん?」と聞くが長女は答えない。

気になってクルマを確認しに行った。懐中電灯に照らされて浮かび上がったそれを見て言葉が詰まった。覚えたばかりのひらがなで『おかさん そだてくえて あいがとお いつもくるまにきおつけて』と書いてある。

自宅付近で死亡事故が続き、子供にも注意していた頃である。もちろんその‘落書き’を私は今も消していない。
posted at 2012/03/14 12:24:31
lastupdate at 2012/03/14 12:24:31
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2010/12/24
670 名前:おさかなくわえた名無しさん投稿日:2006/04/19(水) 09:41:18


父が入院中の時の事

酸素マスクを着けなければいけない状況だったんだけど
少し元気になってくると、「家に帰る!」と言い出して
酸素マスクを外してベッドから起き上がろうとする。
で、母に「だめでしょ、お父さん、酸素マスク外したら
死んじゃうよ?大人しくして早く直して退院しようね」
と言われると、とりあえず大人しくなる。

でも30分ぐらいすると「家に帰る!」と、起き上がろうとする。
で、母が「だめでしょ、お父さん(ry

で、また30分ぐらいすると「家に(ry

そんなことを何回も繰り返して、母にたしなめられるたびに
(´・ω・`)な顔をしてた父に萌えてしまった。





・・・ってことを退院したらこのスレに書こうと思ってたのに
なんで死んじゃうんだよ。元気になったら一緒に
好きなカツ丼を食いに行こう、って約束したじゃないか。
父ちゃん・・・
posted at 2012/03/14 22:53:59
lastupdate at 2012/03/14 22:53:59
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2010/12/22


493 :名前ノーブランドさん :03/11/21 06:56

俺の家は貧乏だった。運動会の日も、授業参観の日さえも
オカンは働きに行っていた、そんな家だった。

そんな俺の15歳の誕生日、オカンが嬉しそうに俺にプレゼント
を渡してくれた。ミチコロンドンのトレーナーだった。
俺はありがとうと言いつつも、恥ずかしくて着られないな、
と内心思っていた。

その夜考えていた。差し歯を入れるお金もないオカン、
美容院に行くのは最高の贅沢、手はかさかさで、化粧なんて当然
していない。こんなトレーナー買うくらいなら他の事に使えよ・・・。
そんな事を考えながら、もう何年も見ていない昔のアルバムを
見てみたくなった。若い時のオカンが写っている。

えっ!俺は目を疑った。それはまるで別人だった。綺麗に化粧をし、
健康的な肌に白い歯を覗かせながら笑っている美人のオカンがいた。
俺は涙が止まらなくなった。俺を育てる為に女を捨てたオカン。
ミチコロンドンのトレーナーを腕に抱き、その夜は眠った記憶がある。

それから少しばかり時は流れ、俺は高校卒業後の進路を考えなければ
いけない時期になっていた。大学進学はとっくに諦めていた。
学校で三者面談が行われた時、オカンが先生に向かって言った。
大学に行かせるにはいくらお金が掛かるのですか?
俺は耳を疑った。びっくりしている俺を横目に、オカンは通帳を
先生に見せて、これで行けますか?と真っ直ぐな眼で先生を見つめた。

それから俺は死に物狂いで勉強し、大学に合格することができた。
郷里を離れる際、オカンが俺に真っ赤なマフラーを渡してくれた。
学費を稼ぎながらの大学の生活は苦しくもあったが、マフラーを
見ると元気が出た。
それから時は流れ、会計士になった俺は来年の春、結婚する。
そして生活を共にする。俺と最愛の妻と最愛の母とで。
なんとしても二人を守ってみせる。
色褪せたトレーナーとほつれたマフラーを目を前にして俺はそう誓った。
サンキュー、オカン。

posted at 2012/03/14 19:13:07
lastupdate at 2012/03/14 23:09:40
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2010/12/14

ぼくの友人が、ある女性に激しい片思いの恋をした。
結果的に実らず、今ではその彼女は東京で別の彼氏と暮らしている。
 
ところがそいつが突然会社も辞めて
生まれ育った大阪の地から東京に引っ越してしまった。

理由を聞いたところ彼はこういった。


「彼女が幸せに暮らしているならそれでいい。   
住所も知っているけど会いに行ける訳ないし絶対行かないと思う。    

東京に行くといつもこう思うんだ。

あの人が息を吐くだろ。俺が息を吸うだろ。
それはつまり一つの空気をやりとりをしてるという事なんだ。
雨がふったら同じ雨に濡れるという事なんだ。

ホテルの窓から夜景を見ると、いつも思う。

あの光のどれか一つがあの人の住んでいる家の窓の明かりだ、と。
彼女がいないということは俺が存在していないという事と同じ事なんだ。

彼女が近くにいるというだけで生きていける。
大阪にいるとね、それがないんだ。
死んでいるのと一緒なんだ。
 
だから東京に住むことに決めたんだ」


僕はこれを聞いて不覚にも落涙しそうになった。どうしようもない奴だ、と思った。そんな糞の役にも立たないセンチメンタリズムをかかえていて、どうやって生きていくつもりなのか、と腹も立った。

頭ではそう考えているのだが、身体の奥のどこか不可視の部分がざわざわと揺れ動いて共感を訴えてくるのをどうしても止めることができなかった。

らも氏のエッセイから
posted at 2012/03/14 18:32:34
lastupdate at 2012/03/14 18:32:34
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2010/12/11
5 :大人になった名無しさん :04/02/09 18:50

小4の時の1月15日連休最初の日だっけかな?
いつものメンバー5人で俺の住んでたマンションで遊んでいた。

あん時はミニ四駆を廊下で走らせて騒いでは、管理人さんによく怒られたもんだ。俺は改造が下手でいつも遅かった。

俺はどうしても1番になりたかったからそん中のやつに改造をお願いした。休み終わったら学校に持っていくわと言われてかなり楽しみにしてた。

その休み明け、それが1月17日震災の日だった。

俺は電球の傘にぶつかって額を切ったがなんとか無事だった。
避難した公園にいつもの奴らが集まってきて4人揃ったが、後1人こない。

心配になって4人とうちの親父とでそいつの家の前に行ってみた。光景は悲惨なものだった。1階部分が見る影もなく2階しかなかった。

そいつの姉貴が2階で寝てたらしくて無事に出てきたが、ワンワン泣いていた。
「お母さん、お父さん、〇〇、何してんのよ早くねてらんと早く出てきてや。」
俺たちもその前で立ち尽くすばかりで、何もできずそれぞれ親戚の家や知り合いの家に避難することになってしまった。

そして2月に入っての新聞。
死亡者名の欄にあいつと、あいつの両親の名前が載っていた。

俺はそれを聞いて地元にいったん戻った。
2月20日の合同慰霊祭。あいつと対面したのはその日だった。
スプレー塗装が剥げてるボロボロのミニ四とメモを、やつの姉貴が渡してくれた。

メモには「ちょっとオマケでスプレーもしといたで。
これでお前もいっちょまえになれるな
次走るとき楽しみにしてるで」


「いつ走るねんや。アホが」涙で言葉はそれしかでなかった。

あれから9年、色あせてもう動くことはないだろうミニ四。
今も部屋の机の上に置いている。
posted at 2012/03/14 22:08:01
lastupdate at 2012/03/14 23:08:16
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2010/12/05
三年前じいちゃんが死んだ。認知症+なんかの病気。
病名はおとんが教えてくれなかったし、聞くのが怖かった。

じいちゃんの認知症は突然始まった。行動言動がおかしくなった。
そこからは早かった。認知症は日に日にひどくなった。一人で何もできなくなっていた。
夜の徘徊だってあった。赤ん坊みたいに世話されてた。そこには全く知らないじいちゃんがいた。
そんなじいちゃんが怖かった。
その日からじいちゃんを避けるようになった。
結局、施設に行くことになった。うちだけじゃ手に負えなくなったんだ。

でも施設生活は長くは続かなかった。別の病気があったから。今度は病院に入院した。
他の家族はお見舞いに行っていた。でも自分は受験だから、と行かなかった。そんなの言い訳だった。
ガリガリに痩せて、家族のことも覚えていないかもしれないじいちゃんに会うのが怖かったから。
今思うと後悔してる。お見舞いに行ってあげれば良かったんだ。

それから一年ぐらいたった。その間、じいちゃんは別の病院に移った。
どうやら前の病院に遠まわしに「出ていけ」と言われたらしい。
理由は知らない。でもじいちゃんはやっかいな患者だったのかもしれない。
俺んち金持ちじゃないし、認知症に病気まであったんだから。

自分がお見舞いに行ったのは年明けの寒い冬の日だった。
母親に年明けのあいさつをしに行こう、と言われた。その時の母親の目が状況の深刻さを訴えていた。
俺は察した。じいちゃんの状態が悪かったんだ。

一年ぶりに会うじいちゃん。病室に行くと、じいちゃんは寝ていた。起きる気配はなかった。
その姿を見てびっくりした。喉に管が通ってて、顔がガリガリに痩せていて、涙が出そうだった。
それから花を花瓶に入れたり、簡単な掃除をして帰ろうとしたときだった。
じいちゃんが目を覚ました。
目を細めて俺を見ていた。もしかして、視力も落ちてほとんど見えなかったかもしれない。
俺はじいちゃんのすぐ近くに行って顔を近づけた。

そしたら、じいちゃんが笑った。満面の笑みだった。俺のことを覚えていてくれた。
一年以上会いに来なかったのに、じいちゃんは笑ってくれた。すごくうれしかった。
「また来るね」そういって俺は病室を出た。笑顔のじいちゃんを見たから少し元気がでた。

それから数日後だった。早朝、病院から呼び出された。
病院に着いた時には、じいちゃんはもう死んでいた。静かに目を閉じていた。
悲しすぎる時って涙が出ないんだ、と初めてわかった。

今でもじいちゃんの笑顔が忘れられない。
posted at 2012/03/24 14:39:07
lastupdate at 2012/03/24 14:39:07
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