クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。

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2012/08/30
私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。
職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に、「今日は遅くなるよ。
ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」
と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と私が言うと、いつもは
温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。
「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。
家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。食卓にはスーパーで売ってるような
鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。

「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。
父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。
私は言い過ぎたな、と思った。でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。
その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実は
お母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」とつぶやいた。
呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに
「○子に迷惑をかけてしまった。」とあった。
ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。夜が明ける頃には
涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。
4,5日して母は死んだ。仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。
父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。
母にとっては最後だったのに、、、。
父も数年後に死んだ。こんな情けない自分でも、がんばって生きている。
posted at 2012/08/30 0:12:30
lastupdate at 2012/08/30 0:12:30
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2012/08/27
些細な事ですが…

10年程前、母が何かの病気(今だに知らないのはちょっとおかしいですよね(;^_^))で手
術して入院しました。

私の通っていた中学校の昼食は、給食ではなく弁当持参の学校でした。

毎朝作ってくれていた母が入院したので、
その1ヵ月弱の期間、
代わりに父が毎朝早くから起きて作ってくれました。

私の兄弟は3姉弟でした。
皆年が近かったので、3人分を作らなくてはいけませんでした。

父は「友達に見られても恥ずかしくない弁当を作るから安心しろ!p(^-^)q」と、テレビ
の料理番組や本を見ながら研究したり、友人に聞いたりしていたようです。

父は毎日の弁当に、必ずしょっぱい卵焼きを入れてくれていました。

季節は夏だったので、父なりに調べたのであろう
「塩を少し効かせると腐りにくいんや♪(゚∀゚)v」

と、どこから仕入れた知識なのやら、その卵焼きは塩味の効いた不器用な卵焼きでした。

アレから十数年…
母が残業で遅くなったりして夕食の支度がまだの時は、父が例の卵焼きをよく作ってくれ
ます。
その卵焼きは、まだ少ししょっぱくする癖が残っており、食べる度に
「あぁ…、オレの親父の味だな」と、ホロリとしてしまいます。

父と呑む晩酌の、愛情の効いた最高の肴です。(*^ー^)
posted at 2012/08/27 0:23:50
lastupdate at 2012/08/27 0:23:50
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2012/08/25
僕は、何かにつけて口うるさい母がイヤでしかたがありませんでした。それこそ、1から10まで干渉されているようで、早く独立して家を出て行くことばかり考えていました。

幸い、近くにちょうどいい部屋が開いたので、すぐに引っ越しました。

やっと、うるさい母から離れて暮らすことができ、解放された感じがしてうれしい毎日でした。

ところが、いざ自分で暮らすとなると、食事・洗濯・掃除などでアルバイトで疲れた身体にはこたえました。食事もコンビニで買った弁当やカップ麺で済ますことが多くなり、おまけに洗濯物もたたまずに部屋の隅や衣装ケースに丸めてつっこんでおくようになってしまいました。

そんなある時、自転車のカゴにおかずが置いてありました。母に違いありません。

アルバイトで疲れた身体に母の作った「肉ジャガ」の味には、とても有り難い気持ちがしました。何も手紙やメモもありませんでしたが嬉しい感がしました。

一緒にいる時は“口うるさいだけの母”と思っていましたが、そうではありませんでした。親としての優しい愛情だったのです。

それでも、実家に帰ると母に面と向かって何も言えず、ただ、黙ってあいた容器を台所に置くだけでした。母も何も言いません。



しかし、心の底ではとても感謝しています。
posted at 2012/08/25 0:16:16
lastupdate at 2012/08/25 0:16:16
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2012/08/23
海の学習という名前で学年全体で泊りがけでの研修のあった5年生。
雨女の私が出かけると必ず雨。
今までの遠足も雨が多かったからそんなにがっかりすることもだんだんなくなってた。
ただ海の学習だから海でボートに乗ったりできるのが楽しみだったのに。
本当なら外のお日様の下で食べられるはずだったお弁当。かわいそうに。せっかくお母さ
んが作ってくれてみんなで外で気持ちよく楽しくワイワイ食べたかったのになー。
雨だから研修所の宿泊大部屋でみんな自分のお弁当をとりだした。
あれ?包みの中にお母さん、何か入れてる??

「○○ちゃん、楽しみにしていた海の学習の日がきたね。たくさんのお友達と一緒にお弁
当を食べてね」
メモがでてきた。

3人年子の兄弟の真ん中の私。
いつも子育てに仕事に忙しかったお母さんはそれでも家事の手抜きはなかった。それでも
中子の私はあまり母にはかまってもらえてなかった。
それもあまり気にならなかったし。
お母さん大好きだから。

そこにこのメモ。
読みながら涙がブワーっとでてきた。

どんなおかずがはいってたか記憶にない。
自分の涙でしょっぱかったことは覚えてるのに。
そのメモ、お母さんに見られないように20年たった今でも隠してもってる。
posted at 2012/08/23 0:13:31
lastupdate at 2012/08/23 0:13:31
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2012/08/17
僕には今、おばあちゃんが2人、おじいちゃんが1人います。            
一人のおじいちゃんは、俺が4才の時に亡くなりました。      
もう一人のおじいちゃんは今、全身にガンが転移してもう長くありません。
それを紛らわす為に今は病院で入院しながらモルヒネを毎日飲まされてるんです。
おじいちゃんの寿命はあと2ヵ月持つかわらないと母親に聞かされました。
ちょうどその時は仕事の帰り道で、僕一人、車の中で声も出さずに一人泣いていました。
おじいちゃんとの思い出が頭の中を駆け巡ります。
俺が小さい頃、いっぱい遊んでくれたね。
静岡にいたとき、おいしい料理、いっぱい作ってくれたね。
俺が言うこと聞かなかったとき、いっぱい怒ってくれたね。
俺が引っ越すとき、俺が泣いてるときになぐさめてくれたね.
俺にはもうおじいちゃんって呼べる人、いなくなっちゃうじゃん。
将来、俺が結婚するの、見届けるって言ったじゃん。
これじゃ、俺がおじいちゃんを見届けなきゃいけないじゃん。
もっと長生きしてよ。
そして俺の将来、見届けてよ。おじいちゃん…。
posted at 2012/08/17 0:18:40
lastupdate at 2012/08/17 0:18:40
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2012/08/15
高校1年の時、夢を見た。
それは、夢を見る数ヶ月前にボケはじめて今は老人ホームにいるじいちゃんのとこに行っ
た夢。

ボケてたはずなのに、俺の事わかってるみたいで優しく笑いかけてくれて2人で写真とっ
たり、じいちゃんの昔話とか聞いたりして本当楽しかった。初めて見たじいちゃんの夢。

そこで夢がさめた…。

夜中の2時くらいで、家の中がうるさくて「また親がケンカしてんのかな?」って思っ
た、そしたら母さんが部屋に入ってきて「じいちゃんが…」って。

みんな急いで支度してじいちゃんのトコに向かった。

家から出て数分後に父さんの携帯に電話がきた、「…今逝ったって…。」その時はまだ信
じきれなくて、ただただじいちゃんに会いたかった。

着いたのは老人ホームじゃなくて病院で、もう治る見込みがなかったのかな?ほかにも老
人ホームに入りたい人がいるからって病院にうつされてたんだって。

病院に入ると重い雰囲気…そして、じいちゃんのいる部屋へ案内された。
そこには泣いてる叔母とばあちゃん、看護婦さんとじいちゃん。
じいちゃんしばらく見ないうちに小さくなってた。

涙を流しながら叔母が話しかけてきた、
「じいちゃんね、亡くなる前にあんた達兄弟の名前ばっっっかり呼んでたよ。あんた達に
1番会いたかったんだろうね、あんた達の事1番かわいがってたから。」

そこで初めて涙が流れた、じいちゃんが亡くなったって実感した。

じいちゃんは最後に俺の夢の中へ会いに来てくれたんだね。

あの時間は本当に楽しかったよ。

あの時のじいちゃんの優しい笑顔、まだ覚えてるよ。

会いにきてくれて、ありがとうね。
posted at 2012/08/15 0:07:00
lastupdate at 2012/08/15 0:07:00
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2012/08/12
後から思うと「ああ、あの時が分かれ道だったのだ」と思うことがいくつかあります。

私は北海道で野や山を駆け回って子ども時代を過ごしました。大雪の朝、通学の途上まだ
誰も踏んでいない雪野幌にでーんと倒れて空を眺めたり、友達と探検ごっこをするのが大
好きでした。愛読書は「あしたのジョー」。明日のために・・・という言葉がいつまでも
脳のシワに刻み込まれています。高校までは男女共学でのびのびと育ちました。さて、短
大は地域でお嬢様学校といわれるキリスト教の短大で源氏物語なんかを読んでいました。
私は、マリアの処女懐胎なんて「あり得ない」とレポートするとんだはね返りの学生でし
た。ただ、”けち”だった故か授業にはまじめにでていました。月に一度ほど学長の講話
があり、ある時の授業が未だに心に残っています。
 北国で修道女として長く女子教育を使命として生きてきた学長はこんな風にお話しされ
ました。

「皆さんはこれから社会に出ます。ある人は穏やかで幸せな人生を送るでしょう。ある人
は困難な、苦労の多い人生を送るでしょう。神様はどなたにも公平です。もし、あなたが
これから困難が多い、厳しい人生を送るとしたら、それは神様があなたにその困難を乗り
越える力を与えてくれているからなのです。もし、あなたが平穏で穏やかな人生を送ると
したら、神様はあなたにはその力がないと思っているのかもしれません。だから、これか
ら先どんな困難があるとしても、それは神様がかならずあなたに乗り越えられる力を与え
てくれているので、心配することはありません。貴女は心配せずに乗り越えることができ
るはずです。」マリアなんてと言っていた私は、そのとき何故か「ふーん」と思いまし
た。それは、世の中をこんな風に考えていくことができるという驚きでした。そして、何
故か私に困難が一杯くるようにと待ち望むような気になりました。
posted at 2012/08/12 10:35:48
lastupdate at 2012/08/12 10:35:48
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2012/08/11
入学したての頃、俺は初めて学食に行ってみたんだ。もちろん一人でね。
慣れない食券システムにに戸惑いつつも、俺はウキウキした気分でハンバーグ定食を購入した。

定食を貰って、席に着こうとしたんだが、もうすでに満席。
一見空いているかに見える席も、DQNどもが荷物を置いて席取りしていた。
今考えたら混雑した昼時に学食に行ったのが、全ての間違いだったんだ・・・

俺は焦った。とりあえずどこか席が空くのを待ってみたが、一向に空かない。
明らかに食事を終えている奴らも、友人と会話をしていて席を立とうとしない。
俺はハンバーグ定食のお盆を持ったまま、その場に立ち尽くしてしまった。

どうしようもなくなって錯乱してしまった俺は、近くの調味料や飲み物が置いてある台に、持っていたハンバーグ定食を置き、その場で立ち食いを始めてしまったんだ。

俺のあまりに滑稽な姿に、周りの奴らが笑っているのに気づいた。
中には俺の姿を写メールで撮影し始めるDQNもいた。
俺は半泣きになりながらハンバーグ定食を急いで食べ終え、逃げるようにその場を去った。
あれ以来2度と学食へは行っていない・・・
posted at 2012/08/11 0:45:20
lastupdate at 2012/08/11 0:45:20
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1995年、阪神淡路大震災を経験しました。

あの時、中学1年生だった自分も、23歳になりました。

2004年、新潟県中越地震が起きました。

阪神淡路大震災の時、あるボランティアの人と約束をしました。

次何かあったら、「お前達の番だぞ。」

そのおかげで新潟県にボランティアに行くことを決意しました。

新潟に行ったら、丁度自分が経験した時と同じ年齢の子供達が、学校で寝泊りをしていま
した。

もちろん、その子供達に、「次、何かあったらお前達の番やから。」っと伝えてきまし
た。

その少年以外にも、4歳の男の子と仲良くなりました。

その男の子の父親が、震災直後にも関わらず仕事があり、忙しいかったのと、保育園が休
みだったって事もあり、2日間、一緒にサッカーボールを一緒に蹴ったりして遊んでいたんです
が、当然お別れの時がやってきました。

迎えにこなくてもいいっと言ったのにも関わらず、父親と、その男の子がきてくれまし
た。

そしてバスに乗る前に、その男の子に言われたのは、

「大きくなったらお兄ちゃんと結婚してあげるね!」

って言われて、帰りバスの中で一人で泣いていました。
posted at 2012/08/11 0:45:20
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あなたはベタベタするのが嫌いでしたね。

布団の中で,ギュッとして。と頼んでもイヤだと言って何もしてくれなかった。

ある日あなたはこう言った。

「たまには抱きしめて寝てやるよ」

私はちょっと驚きながらも嬉しさと幸せで胸一杯になって
その日はあなたの腕の中で眠りにつきました。

次の日あなたは
「出掛けてくるよ」
と言いました
「行ってらっしゃい」
そう言った私に優しく微笑みかけ,今までで一番優しいキスをくれました。

そして出ていきました

あなたは帰ってきませんでした

笑顔のない人形になって
これから消える存在として帰ってきました

人は死ぬ前,必ず無意識のうちに変わった行動をとると言います

急に優しくならないでよ

急にあたしの我が儘を叶えないでよ

そんなのいらない

いらないから

ずっと側にいてほしかった
posted at 2012/08/11 0:45:20
lastupdate at 2012/08/11 0:45:20
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